自殺したらクリスチャンでも未信者でも地獄行きとは聖書の教えか

2022/11/27

死と復活 動物と進化論

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マタイによる福音書12章8節から11節における「安息日の主」としての宣言は、単なる律法解釈の論争に留まらず、終末論的な救済計画の示唆として捉えることができる。すなわち、千年王国をヤフワの安息の預言的成就と定義するならば、その「安息日の主」であるキリストは、大祭司としての権能に基づき、シェオル(陰府)という極限状態に拘束された人類に対する贖罪的介入を行う主体となる。ここには、精神的衰弱や自死に至った者らを含む、全人類の救済という大祭司的任務(High Priestly Ministry)の預言的遂行が見て取れる。

義者と不義者の復活

使徒24:15 また,私はこの方たちと同じ希望を持っております。神が正しい人も正しくない人も復活させてくださるという希望です。

キリストによる直接的なパラダイス(地上楽園)への招致の約束は、いわゆる「天の王国での共同統治(マタイ 6:9, 10、啓示 21:1-4)」という特権的終末論とは異なる、普遍的な地上復活の希望を提示している(ルカ 23:39-43)。イエスの横で十字架刑に処された犯罪者は現世の法秩序において有罪とされ、道徳的には不義者であったが、臨終の間際に最小限の信仰告白(主体的認知)を行ったに過ぎない。 神がこのような不義者を復活させる目的について、一部の神学者は「過去の罪を再糾弾し、永久に呪うため(二重予定説や地獄刑罰論)」と主張したが、これは聖書法医学的な誤謬である。なぜなら、以下の法理が成立するからである。

◆ローマ 6:7, 23: 「罪の支払う報酬は死」であり、主体の肉体的な死の完了をもって、現世における罪過の法的責任(刑責)は原理的に放免(消滅)する。

したがって、復活した主体が過去の罪によって再告発されることはない。ただし、主体が「完全な状態」へと至るためには、キリストの贖罪(代替的満足)という法基盤が不可欠であり、復活後の地上パラダイスは、過去の罪を詰問する場ではなく、新たな生において自己を倫理的に更新するための「審理と教育の機会」として機能する(ヨハネ第一 4:8-10)。

憐れみが示される機会

伝統的な神学が自死者を一律に「大罪人」として排斥してきた論理は、人間の精神構造に対する浅薄な理解に起因する。聖書史料は、神の忠実な僕であっても、環境的圧迫によって実存的危機(生への嫌悪)に陥る事例を豊富に記録している。

◆ヨブ 1:21: 徹底的な実存の剥奪に対し、主権者としての神の絶対性を認める一方で、激しい悲嘆に暮れる。 

◆伝道の書 2:17 / 7:1, 7: 「生きていることを憎んだ」という告白や、「圧迫は賢い人に狂気じみた行動を取らせる」という精神医学的知見に等しい心理分析。 

◆列王第一 19:4(エリヤ): イゼベルの脅迫という急性ストレスにより、「私のいのちを取ってください」と死を懇願する抑うつ状態。 

◆エレミヤ 20:17, 18: 自身の出生そのものを呪い、悩みと悲しみと恥に満ちた生に対する絶望を吐露する。

自死を選択した個人は、現世において行為を反省し、悔い改める(メタノイア)ための時間的・主体的契機をその時点で喪失する。しかし、ユダ王マナセ(列王第二 21:16、歴代第二 33:12, 13)のような極悪な殺人者が、生存期間の延長(幽閉という環境変化)によって劇的な内面的変容を遂げ得たという史実は、人間の内面が可変的であることを証明している。もし自死者がその狂気(圧迫)から免れて生存し続けていたならば、同様の変容を遂げた可能性は否定できない。

したがって、自死という行為のみをもって救済の可能性を絶対的に否定する神学的独断は退けられるべきである。全人類の代替的贖い(マタイ 20:28)を完了した主(メシア)には、その絶対的な憐れみの司法権に基づき、自死者に復活という機序を提供し、「悔い改め、かつ悔い改めにふさわしい業をして神に転ずる(使徒 26:20)」という公正なセカンドチャンスを付与する正当な権限が帰属している。

クリスチャンだけが生き延びるのではない

キリスト教信仰の究極的な目的は、個体としての滅びの回避や刑罰の免除に集約されるものではない。むしろそれは、終末論的成就としての千年統治において、復活を遂げる膨大な未信者および不義の徒に対し、教育的・統治的役割を担うことに本質がある。 神学的文脈において、これら復活した群衆は、生前にキリストの福音に接する機会を持たなかったものの、神の慈悲による斟酌の余地を残した対象と定義される。神が大祭司キリストと共鳴する真の門徒を祭司職へと召命するのは、彼らを全人類の罪を贖い、救済へと導く実務的・霊的な任務に就かせるためである。すなわち、信徒の救済とは自己完結的な特権ではなく、全人類の復元に向けた公的な救済プログラムの一環として位置づけられる。

マタイ11:21「ああ、コラジンよ。ああ、ベツサイダよ。わたしがあなたがたの街頭で行ったような奇跡を、あの邪悪な町ツロやシドン(悪行のため、神に滅ぼされた町)で見せたなら、そこの人々は、とうの昔に恥じ入り、へりくだって悔い改めていたでしょうに。 22いいですか、さばきの日にはツロとシドンのほうが、あなたがたよりまだましなものとされるのです。 23ああ、カペナウムよ。大きな名誉を受けたあなたも、地獄にまで突き落とされるのです。あなたのところでしたすばらしい奇跡を、もしあのソドムで見せたなら、ソドムは滅ぼされずにすんだでしょうに。 24いいですか、さばきの日には、ソドムのほうがあなたより、まだましなものとされるのです。」

ルカ11:31 さばきの日には、シェバの女王が立ち上がり、この時代の人々を名指しで断罪します。彼女は、ソロモンから知恵のことばを聞くために、あれほど遠い国から旅して来ることをいとわなかったからです。けれども、そのソロモンよりはるかに偉大な者が、ここにいるのです。それなのに、だれ一人見向きもしません。 32ニネベの人たちも立ち上がり、この時代の人々を罪に定めます。彼らはヨナの教えを聞いて、それまでの堕落しきった生活を悔い改めたからです。けれども、そのヨナよりもっと偉大な者が、ここにいるのです。ところが、耳を傾ける人は一人もいません。

裁きの日とは、人の子すなわち天使長ミカエルとしてのイエス・キリストが、ヤフワより千年王国の統治権を委譲される特定の期間を指す。この期間、キリストは24人の長老および14万4000人の聖徒と共に審判の座に就き、終末論的な司法権を行使する。 この審判の特筆すべき点は、ソドム、ツロ、シドン、あるいはシェバの女王といった、存命中にキリスト教的啓示に接し得なかった未信者の復活を包含する点にある。これらの群衆は、千年統治という安息の日において、神の公義に基づく個別的な裁定と、再教育を伴う救済プロセスの対象となる。したがって、裁きの日とは単なる断罪の場ではなく、キリストとその共同統治者による管理的救済と、復活した人類の復元を目的とした長期的スパンの統治期間と定義される。

イザヤ書 19:23 その日、エジプトからアッシリアへの大路が開通する。アッシリア人はエジプトへ、エジプト人はアッシリアへと行き来し、エジプト人はアッシリア人と共に主に仕える。 24 その日、イスラエルはエジプトとアッシリアと共に、三つの国が地上の中央で祝福を受けるものとなる。 25 万軍の主は彼らを祝福して言われる。「わたしの民エジプト、わたしの手の業アッシリア、わたしの嗣業イスラエルに祝福があるように」と。

エゼキエル16:53 『私は,彼女たちの捕らわれている民,すなわちソドムと娘たちおよびサマリアと娘たちの捕らわれている民を集める。また,あなたの捕らわれている民も一緒に集め, 54 あなたが恥辱を受けるようにする。あなたは彼女たちを慰めるようなことをしたために,恥じることになる。 55 あなたの姉妹であるソドムとサマリア,またその娘たちは,以前の状態に戻る。あなたと娘たちも以前の状態に戻る。

ゼカリヤ14:16 「また,必ずこうなる。[すなわち,]エルサレムに攻めて来たあらゆる国民のうち残っているすべての者(旧約時代も含めたすべての世代において神の道徳基準に反逆した人たちで斟酌ありの罪人たち),その者たちもまた年ごとに上って行って王なる万軍のエホバに身をかがめ,仮小屋の祭りを祝わなければならない。17 そして必ずこうなる。すなわち,地のもろもろの家族のうち,エルサレムに上って来て王なる万軍のエホバに身をかがめない者がいれば,その者たちの上に,降り注ぐ雨が生じることはない。18 また,もしエジプトの家族が上って来ず,まさにそこに入って来ないなら,その者たちの上にもそれは生じないであろう。上って来て仮小屋の祭りを行なわない諸国民をエホバがむち打つその神罰が臨む。19 これが,エジプトの罪,また上って来て仮小屋の祭りを行なわないあらゆる国民の罪[に対する処罰]となる。

千年王国における復活の対象には、本質的に神への反抗的傾向を残した罪人も含まれるが、これらはキリストの統治下で段階的な矯正プロセスに置かれる。マタイ12章および関連聖句が示唆する通り、アッシリアやソドムの住民を含む火の裁きを被った者らであっても、神の司法判断において残虐性が無く斟酌の余地があると認められた人々は、キリストの福音を学習し、霊的再生を図る機会に預かるため復活する。すなわち、ソドムやゴモラの滅びは不可逆的な絶滅ではなく、大祭司キリストとその祭司団による教育的救済を前提とした、一次的な裁きと定義される。

イザヤ66:19 「そして,わたしは彼らの中にしるしを置き,逃れた者たちのある者を諸国民のもとに遣わす。タルシシュ,プル,およびルド,弓を引く者たち,トバルとヤワン,遠くの島々[に]。それはわたしについての報告を聞いたことも,わたしの栄光を見たこともない者たちである。彼らは必ず諸国民の中でわたしの栄光について告げるようになるであろう。

ゼカリヤ書14章に詳述されるエルサレム侵攻勢力、すなわち生前に神権統治へ激しく抗拒し続けた諸国民に対してすら、終末論的な文脈において罪の赦しと「主を宣べ伝える者」への変容の機会が示唆されている事実は、神の救済計画の驚異的な範疇を物語っている。 このような強硬な敵対者に対してさえ再教育と和解の道が開かれているならば、真のキリスト論的啓示に接する機会を持たず、精神的・霊的な衰弱の果てに自死を選択したクリスチャンや多勢の未信者たちが、千年王国の安息において復活を遂げることは、論理的かつ必然的な推論である。大祭司キリストによる贖罪の任務は、シェオルの深淵に陥ったこれら「斟酌の余地ある故人」をも包括し、彼らに再び霊的再生と真理の学習機会を供与するものであると定義される。

千年統治における審判の本質は、エゼキエル書18章30節が規定する「個別の行いに基づく司法判断」に集約される。この時代に復活を遂げるのは、神の公義において斟酌の余地があると認められた特定の人類であり、大祭司キリストによる統治は、これら復活者に対する段階的な霊的・倫理的矯正を伴うものである。 復活後もなお不遜な態度を維持し、神権統治に抗拒する強情な民に対しては、ゼカリヤ書14章に示されるような条件的制裁――降雨の停止や疫病といった介入――が発動される。これら一連の処置は、最終的な断罪を目的とした刑罰ではなく、安息日の主による「羊を穴から救い出す」ための強制的介入であり、対象となる人々を贖罪と服従へと導くための管理的懲らしめ(Providential Discipline)と定義される。

聖書的な雨の意味合いについて

イスラエルでは、気候は雨期と乾期に分けられ、雨期は11月から翌年3月(または10月中旬から4月中旬)まで、乾期は5月から9月までとなる。4月と10月は短い春と秋にあたる。雨期が始まる10-11月頃に降る雨を 「秋の雨」と言い、雨期が終わって行く 3-4月頃に降る雨を 「春の雨」と言う。(申11:14-17)またクリスチャンは麦に例えられる。(マタ13:24-30、36-40) さらにヤコブ5章7節でも、「だから、兄弟たちよ。主の来臨の時まで耐え忍びなさい。見よ、農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている。」とあるように、春と秋の水源の増加がイスラエルでは重要視されており、それを象徴的に聖霊の降下やクリスチャンの収穫として表現している。

秋の雨の聖霊と春の雨の聖霊
秋の雨の御業は 2千年前、復活昇天なさったイエス様が、エルサレムに集まって十日間心を尽くして祈った弟子たちに、五旬祭の日に聖霊をくださったことにより預言が成就した。 これによって初代教会は一日に 3千人が悔い改める御業が起き、以後も多くの魂が救いを受けた。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、…すると、一同は聖霊に満たされ、…ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。」(使2:1-47)

祭り(仮庵祭)が最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。(ヨハ7:37-39)「“霊”と花嫁とが言う。「来てください。」これを聞く者も言うがよい、「来てください」と。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。」(黙22:17)

このように水が貴重なイスラエルの環境について知れば、イエスの「永遠に渇かない水を与える」(ヨハ4:14) や、聖霊時代の救い主として臨まれた聖霊と花嫁の「命の水を受けに来なさい」(黙22:17) というみ言葉の表現が比ゆ的な意味合いがあると理解できる。

ヨエル2:23 シオンの子らよ、あなたがたの神、主によって喜び楽しめ。主はあなたがたを義とするために秋の雨を賜い、またあなたがたのために豊かに雨を降らせ、前のように、秋の雨と春の雨とを降らせられる。

マタイ5:45 こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。

使徒2:14 すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。 15今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。 16そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。 17『神は言われる。 終わりの時に、 わたしの霊をすべての人に注ぐ。 すると、あなたたちの息子と娘は預言し、 若者は幻を見、老人は夢を見る。 18わたしの僕やはしためにも、 そのときには、わたしの霊を注ぐ。 すると、彼らは預言する。

新約以降主は雨を邪悪な者にも与えるとありますから千年王国中に雨が降らない地域があって罪無き個人や動物に影響を及ぼすことはないと言える。ゼカリヤ書の千年王国中の雨の恵みとはイエスを受け入れることによる聖霊の降下を意味するであろう。一世紀当時の真のリバイバルにおける秋の雨はペテロが使徒2章14節からヨエル2章を引用していることから、既に聖霊として降り注ぎ完了しました。春の雨は一世紀以降のキリストを知らない人たちに降り注ぐ神の恵みによる聖霊降臨でしょう。

千年王国の動物たちについて

真の意味は、もし復活してきた未信者が反抗的で神を受け入れないなら雨に例えられる聖霊が下らず個人個人が災厄や疫病つまりまた死に向かってしまうという描写と言える。仮に文字通り解釈して罪の傾向がある人々を諫めるために一時的に雨が降らないとか疫病が広まるとしても無関係な人や動物には健やかな生活が保障されている。ここは、想像の範囲内だが、雨の恵みを受けられる人とそうでない者との明確な区分があると推測される。また動物たちも天の祭司キリストと祭司団によって奇跡的に保護され広大な楽園における水源豊かな肥沃な土地に移動させられるとも想像できる。

ヨブ記5:19 主は六つの悩みのうちにあなたを救い出し、七つの目の悩みと悪があなたに触れることはない。(七千年目の千年王国で義人や動物が害を被ることは無い)

⇒旧約が象徴的に未来を示している事例

ダニエル4:7 眠っていると、このような幻が頭に浮かんだのだ。大地の真ん中に、一本の木が生えていた。大きな木であった。8その木は成長してたくましくなり天に届くほどの高さになり地の果てからも見えるまでになった。9葉は美しく茂り、実は豊かに実ってすべてを養うに足るほどであった。その木陰に野の獣は宿りその枝に空の鳥は巣を作り生き物はみな、この木によって食べ物を得た。

イザヤ11:6 狼は小羊と共に宿り豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち小さい子供がそれらを導く。7牛も熊も共に草をはみその子らは共に伏し獅子も牛もひとしく干し草を食らう。8乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ幼子は蝮の巣に手を入れる。9わたしの聖なる山においては何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように大地は主を知る知識で満たされる。65:25 狼と小羊は共に草をはみ獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物としわたしの聖なる山のどこにおいても害することも滅ぼすこともない、と主は言われる。

エゼキエル31:3 アッシリア人,またレバノンの杉のようだ。 美しい枝は陰を作る林のようで,丈は高く, 頂は雲に達していた。 4 木は水によって大きくなり,深い泉によって高くなった。 植えられた場所の周囲には川が流れ, 野の全ての木を潤す幾つもの水路があった。 5 そのため,この木は野のほかのどの木よりも高くなった。 大枝が増え,細い枝も長く伸びた。 川の豊かな水によって。

イザヤ11章6節と65章25節や、ダニエル4章、エゼキエル31章では、エデンの園の幻の中の「全て皆」の動物たちが命の木の実や水から食べ飲みして幸せに生きる描写があるため、大きく地上のオアシスが乱れて動物たちが食べ飲みに困るほどの懲らしめはなくむしろ永遠の命を有しながら平穏に過ごせると考えられる。ダニエル4章ではネボ王が楽園での巨木の夢を見るが、エゼキエル31章では、アッシリアがそれに例えられる。

バビロンのネブカドネザルやアッシリアという悪い人の夢や国の象徴の比喩表現だとしても、その巨木は現段階ではサタンが罪によって奪い去り、悪徳権力者に与えると豪語したように、それらが他者を犠牲にしてまで独占している命の木の象徴と思われるが、千年王国でキリストにより取り返され、今度はソロモン統治中黄金時代のように義人や動物たちの所有物になり実現する。

イザヤ65:21 彼らは家を建てて住みぶどうを植えてその実を食べる。22彼らが建てたものに他国人が住むことはなく彼らが植えたものを他国人が食べることもない。わたしの民の一生は木の一生のようになりわたしに選ばれた者らは彼らの手の業にまさって長らえる。23彼らは無駄に労することなく生まれた子を死の恐怖に渡すこともない。彼らは、その子孫も共に主に祝福された者の一族となる。

エゼキエル17:22 主なる神はこう言われる。わたしは高いレバノン杉の梢を切り取って植え、その柔らかい若枝を折って、高くそびえる山の上に移し植える。 23イスラエルの高い山にそれを移し植えると、それは枝を伸ばし実をつけ、うっそうとしたレバノン杉となり、あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになる。 24そのとき、野のすべての木々は、主であるわたしが、高い木を低くし、低い木を高くし、また生き生きとした木(反逆の権力者)を枯らし、枯れた木(圧制された民)を茂らせることを知るようになる。」主であるわたしがこれを語り、実行する。

それで、キリストを知らず滅んで罪の報いを受けてから復活してきた人類の中に罪の傾向を秘めた者がいたとして、キリストよって牽制される場合にあくまでそれら個人個人が雨の恵みに預かれないための区分、印などがあるのだろう。それでも全ての動物は命の木によって養われるとある通り、イエスと天的クリスチャンによって広大なエデンの園近隣の水源豊富で作物も肥沃な土地に移動させられ養われると考えられる。

しかしやはり復活してもなお反抗的に振る舞うなら安全な秩序の乱れが生じるため、やむなくあくまで個人に神の存在を知らしめて身勝手に振る舞うことがないよう、何らかの制裁があるだろう。しかし心を入れ替え新エルサレムに来訪することで、癒されると黙示録に明記されている。一方でサタンが幽閉されている誘惑の無い期間において故意に利己的に振る舞い一線を越える罪を犯し続ける者たちについてイザヤ 26章10節はこう明記する。「邪悪な者は恵みを示されることがあっても,全く義を学びません。彼は正直の地で不正の行ないをし,ヤフワの卓逸性を認めません」。それら邪悪な者たちは,裁きの日の期間中に死に処され,その死は恒久的なものとなる。(イザヤ 65:20)とはいえ、地上が荒れて無関係な動物や人類が苦しむことはなく、罪なき存在に対しては恵みの雨や健やかな安らぎが永遠に保証される。

黙示録21:3 私は、王座から大声で叫ぶ声を聞きました。「ごらんなさい。神の住まいが人々の間にあります。神は人々と共に住み、人々は神の国民となります。神ご自身が人々の中に住み、 4その目から涙をぬぐってくださるのです。もはや、死も悲しみも叫びも苦痛もありません。それらはみな、永遠に姿を消したからです。」

22:1 天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。 2川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。 3もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、 4御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。 5もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。

千年王国の際には様々な諸国民、癒やしを必要とする民がいる。ギリシャ語のエスノスは神のイスラエルなるクリスチャンと対称的に異邦人つまり未信者を意味する言葉として使用されています。この諸国民はキリストを知らない復活してきた民であり、千年王国の最中にこの新エルサレムの中に入って命の水を得ることができるのか、イエスとクリスチャンたちによって審判される。

それで、復活してくる人々の中にソドムゴモラのキリストを知らずに死去した罪のうちに死去した故人が含まれるなら、なおさら、一時的な思いで何かに苦悩して自殺した人々は間違いなく復活すると結論付けられる。彼らは癒やしを必要とする諸国民つまりエスノスなる未信者たちであり、千年王国の最中に信者となり神の子となる機会が与えられる。聖書記帳者や偉大な信仰の先達ですら、その生涯において死を願うほどの霊的精神的窮致に立たされた事実は、人間性の限界を如実に示している。この神学的前提に立つならば、真理の光を知らぬまま絶望の中で生命を終えた未信者に対し、ヤフワの慈悲が及ぶことは極めて正当な論理的帰結と言える。

ルツ記2:20  それを聞いてナオミは嫁に言った,「その人にヤフワから祝福がありますように。[神]は生きている者にも死んだ者にもご自分の愛ある親切をお捨てにならなかったのです」。

詩編103:3 主はお前の罪をことごとく赦し病をすべて癒し 4命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け 5長らえる限り良いものに満ち足らせ鷲のような若さを新たにしてくださる。6主はすべて虐げられている人のために恵みの御業と裁きを行われる。7主は御自分の道をモーセに御業をイスラエルの子らに示された。8主は憐れみ深く、恵みに富み忍耐強く、慈しみは大きい。9永久に責めることはなくとこしえに怒り続けられることはない。10主はわたしたちを罪に応じてあしらわれることなくわたしたちの悪に従って報いられることもない。

そもそも今のキリスト教はローマ帝国が生み出した恐怖政治を強いるためのカルトであり、正統教理を信じなくば異端で地獄と脅迫する流れがある。

実は救われた後に神を知る

ルカ10章25節では、異教徒サマリヤ人が隣人を助けたために神を知るユダヤ人より義にかなっているとイエスは定義している。この時点でのサマリヤ人には、数百年に渡り背教した北イスラエルに侵攻し制圧しそこに住み着いた異教民族アッシリア人との混血児も存在した。ヤラベアムは北イスラエルで金の子牛崇拝を普及させ、その後滅ぶと更に多くのアッシリアの異民族が住み着くようになり穢れた様々な神々の名前が列挙される異教的崇拝行為が完全に浸透した。(王一 12:28-33; 王二 17:7-17, 24-41; 代二 11:13-15; 13:8,9)サマリヤ人の詳しい背景はこちら

さらに ユダヤ人がバビロン捕囚後に土地に戻り神殿再建を始めると、それを阻止すべく対抗した事実もある。(ネヘミヤ6:1-14)あげくエルサレム神殿に抵抗するべくゲリジム山にサマリア人の神殿が建てられ、異教とユダヤ教を都合よく混ぜ込んだ現代キリスト教からしても歪な習慣があった。

しかし、イエスは親切なサマリヤ人での例え話にて、穢らわしい異教的な背景に関わらず憐れみ深く行動する人こそ義人であることを強調された。この観点は現代のキリスト教は見失っている。例え話の中のユダヤ人は祭司職であり、律法で死体を触ることが禁止されている故に、今にも死にそうな身体に触りたくないと考えたとも推測される。しかし掟に反する場合でも人命救助を優先した異教徒が神の目に善良と映る。

当然だが、神の義とか意味不明な教理に固執して悪霊の言い分を正統教理として口だけで言い広めるよりも、実際に隣人に優しく親切に振る舞うことができる未信者や異教徒たちの方が神の目に義人と定義される。このことから、未信者および異教徒であっても他人の人命救助に尽力できる人たちの方が、宗教的背景で正邪を判断し排他的になるケースより救われると予想できる。そのため他人を救助するために自らが犠牲になることも厭わず実際にそれが原因で亡くなられた多くの未信者や異教徒は、正統教理に拘るクリスチャンよりも神の目に義人としてエデンの園で将来復活し祝福を受けると結論付けられる。

以下の聖句では、イザヤ11章3節において、主イエスが表面的な出来事のみで裁きをせず公平に人々を取り扱うことが強調されているため、自殺をした方々の人生背景における苦悩も十二分に考慮される。さらにエゼキエル34章30節にて、虐待されてきた民が救出された後に神を知るとある。神を知ってから救われるのではなく、様々な要因、労働環境だったり対人関係等で圧制され傷つき既存のキリスト教理にも希望を見出すこともできず、自死含めた真の神を知らずに死去した人類は、まず神に救済された「後」に神を知ると考えられる。テモテ第一2章4-6節でも「あらゆる人が救われand(その後)、真理の正確な知識に至ることが神のご意思」と明記されている。要は、神の救出があってから、救われた全員が神を受け入れ信者になる優先順位が暗示されている。結論としては、第一の死を迎えた自殺者が地獄に今いるとは聖書から明確に説明できず、逆に復活し憐れみを受ける希望に溢れた将来が待ち受けていると言える。

イザヤ11:1 エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、2その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。3彼は主を恐れることを楽しみとし、その目の見るところによって、さばきをなさず、その耳の聞くところによって、定めをなさず、4正義をもって貧しい者をさばき、公平をもって国のうちの柔和な者のために定めをなし、その口のむちをもって国を撃ち、そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す。5正義はその腰の帯となり、忠信はその身の帯となる。61:1 主はわたしに油を注ぎ主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み捕らわれ人には自由をつながれている人には解放を告知させるために。2主が恵みをお与えになる年わたしたちの神が報復される日を告知して嘆いている人々を慰め3シオンのゆえに嘆いている人々に灰に代えて冠をかぶらせ嘆きに代えて喜びの香油を暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた正義の樫の木と呼ばれる。

エゼキエル34:7 それゆえ、牧者よ、主の言葉を聞け。 8主なる神は言われる、わたしは生きている。わが羊はかすめられ、わが羊は野のもろもろの獣のえじきとなっているが、その牧者はいない。わが牧者はわが羊を尋ねない。牧者は自身を養うが、わが羊を養わない。 9それゆえ牧者らよ、主の言葉を聞け。 10主なる神はこう言われる、見よ、わたしは牧者らの敵となり、わたしの羊を彼らの手に求め、彼らにわたしの群れを養うことをやめさせ、再び牧者自身を養わせない。またわが羊を彼らの口から救って、彼らの食物にさせない。 11主なる神はこう言われる、見よ、わたしは、わたしみずからわが羊を尋ねて、これを捜し出す。 12牧者がその羊の散り去った時、その羊の群れを捜し出すように、わたしはわが羊を捜し出し、雲と暗やみの日に散った、すべての所からこれを救う。 13わたしは彼らをもろもろの民の中から導き出し、もろもろの国から集めて、彼らの国に携え入れ、イスラエルの山の上、泉のほとり、また国のうちの人の住むすべての所でこれを養う。 14わたしは良き牧場で彼らを養う。その牧場はイスラエルの高い山にあり、その所で彼らは良い羊のおりに伏し、イスラエルの山々の上で肥えた牧場で草を食う。 15わたしはみずからわが羊を飼い、これを伏させると主なる神は言われる。 16わたしは、うせたものを尋ね(ヘブライ語では、死んだ、滅んだものを求めるの意味がある)、迷い出たものを引き返し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くし、肥えたものと強いものとは、これを監督する。わたしは公平をもって彼らを養う。30そのとき、彼らはわたしが彼らと共にいる主なる神であり、彼らはわが民イスラエルの家であることを知るようになる、と主なる神は言われる。 

優先順位として、まず「滅んだもの」が16節にて一番最初にピックアップされている。神を知らずに不幸な環境の中死去した人々は救済された後に神を知ることになる。千年統治では、神を知らない善良な人類が復活し、天の祭司団に教育されキリストを受け入れる流れが描写されている。

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