千年王国における動物の犠牲は字義通り解釈できるのか

2021/09/09

エデンの園 動物と進化論

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千年統治において第三神殿とか動物の犠牲が字義通り回復すると考えるヘブル支流を重んじるクリスチャン解説者はいます。旧約聖書中では、ヤフワの支配する世界において確かに神殿が存在して、そこで動物の犠牲を捧げられている幻を預言者たちは示されて書き留めています。(エゼキエル45章)

動物の犠牲はメシアの予表

ただ、それを字義通りそのまま解釈することは非常に滑稽で聖書的な千年王国における動植物人間の平安の描写と矛盾しますし、そもそも幻なんて字義通り解釈できへんことを一緒に調べて確信しましょう。イエスのキリストとしての犠牲は当たり前やけど一回限りで終わりです。(ヘブライ7:27)

ヘブライ10章前半に書いてますが、動物の犠牲とは罪を思い出させるものであり、キリストの完全な犠牲がもたらされるまでの影です。11節では動物の犠牲は罪を拭い去ることはできないし、17,18節では「罪の赦しのための犠牲はもはや不要」でありキリストにあって赦されることが描写されているので、結論から言うと当たり前やけど、千年統治で字義通り、動物の犠牲が捧げられて、第三神殿が建設されるとかも間違った解釈と言えます。

ペテロ第一1章10−12節では、過去の預言者たちは彼ら自身に起きる事象のために書き留めたのではなく、未来に起きるメシアについての訓戒のために預言をしたと述べています。エゼキエル45章での字義通りの第三神殿、動物の犠牲の意味をエゼキエルは悟っていなかったでしょうが、メシアを予期させる預言の啓示を受けたので我々を訓戒するために書き記したゆうことです。

ほんで、新約聖書では神殿は字義通りのエルサレムにあるのではなく、我々キリストを信じる人たちが神殿で、信者が集い合う場所が教会であり神殿になると述べられています。ヨハネ4章21節にある通り、霊と真理によってエルサレムでもないところで礼拝し、またコリント第一6章19,20節では我々が聖霊の神殿そのものになるとあります。しかもルカ7章20,21節には、心の中に神の王国が存在し、見える形ではないと表現されてもいます。

さらに重複しますが、ヘブライ10章14節では、「罪の捧げものは廃れた」と断言されていることからも、千年統治になってまた罪を思い起こさせメシアを予表させるための動物の犠牲が字義通り執り成されるとする解釈はかなり無理があると言えます。いかなるこじつけ解釈をしようと、メシアは既に犠牲の死を成し遂げられて天に挙げられヤフワの右の座におられます。

対して、エゼキエル45章23節では、「罪のための捧げもの」が日毎に差し出されると書いてありますが、ヘブライ10章18節は「神が罪を思い起こすことはないので、罪の捧げものは不要」とモーセの律法における動物の犠牲制度を廃止したことを断言しています。

ヘブル支流を重んじる人たちはモーセの律法が千年王国で復興してイスラエルの血統が第三神殿で奉仕して動物の犠牲を捧げるとか言うてます。生前のイスラエルの義人たちが復活し、新エルサレム地方に居住すると思われますが、メシアなる犠牲の子羊が捧げられて贖いが全人類に適応される新しい契約では血統も動物の犠牲も関係ありません。新エルサレムには世界中の復活した異邦人なる諸国民が訪れ栄光を携えると黙示録にある通り、古代イスラエルで通例であった動物の犠牲制度よりも犠牲の子羊なるメシアによるキリストの律法に従うことが求められるでしょう。

モーセの律法の動物の犠牲制度だけが新しく採用されて刷新するとか言うてる人もいますが、ヘブライ8章7節にあるように、「動物の犠牲制度は十分ではない」ためにキリストが差し出されて神が新たに霊的イスラエルと契約を結ばれたのです。

既に契約はイエスの犠牲により刷新されていますから、それ以上の犠牲は不要です。

象徴的であり字義通りではない

エゼキエル47章では神殿から命の水なる川が流れてその両側に生え出る命の木の実が癒やしのための食物となることが述べられています。黙示録22章でも同じ描写が描かれていますが、こちらは神殿がヤフワと子羊になっています。エゼキエルが見た神殿の幻ではなく、神ご自身とイエスが神殿になっているわけです。

エゼキエルはメシアが到来することは頭で理解してるもののイエスの贖いの詳細を知らなかったでしょう、それでエゼキエルにとって認識できる動物の捧げものとして象徴的なメシアの犠牲が幻で示されたわけです。旧約最後の洗礼者ヨハネも「罪を取り除く子羊」であるとイエスを尊んでいました。

また黙示録5章では使徒ヨハネが7つの目と7つの角を有した子羊の幻を見ています。それはイエスを意味していますが、字義通りイエスはその姿ではありません。何度も言いますが、幻や夢は8割象徴的に示されることが多いです。

またエゼキエル48章での幕屋建設の詳細もヘブライ9章で説明されています。これはいわゆるモーセの時代における来たるべきキリストの働きの予表に過ぎません。ヘブル支流を重んじる人はこれも千年王国で復興するとかゆうて、何から何まで字義通り幻を解釈します。

ゼカリヤ14章20節から、「20その日には、馬の鈴にも、「主に聖別されたもの」と銘が打たれ、主の神殿の鍋も祭壇の前の鉢のようになる。 21エルサレムとユダの鍋もすべて万軍の主に聖別されたものとなり、いけにえをささげようとする者は皆やって来て、それを取り、それで肉を煮る。その日には、万軍の主の神殿にもはや商人はいなくなる。」とありますが、こちらもメシアなる子羊の犠牲の血肉を飲食する象徴的な意味です。

こちらは千年統治中に復活した不義者たちが、命の水を飲む段階に達しておらず反逆した際に神から懲らしめを受ける描写ですが、それは短期間の軽い罰であり、彼らもやがて新エルサレムに訪れ、犠牲の子羊の肉を食べる、つまりイエスの贖いに敬意を示すことの雛形として描かれています。

ヘブライ9章21−24節では、モーセの時代の幕屋の道具や民に犠牲の血をふりかけて清める儀式をキリストに当てはめる解釈が描かれています。これはメシアが罪を取り除くだけでなく、天の至聖所へ我々が霊的に清められてヤフワの子供としてイエスの兄弟となり臆することなく入ることを有効にするための血を流すことも意味しています。

またイエスは聖餐式の際に、ご自身の血肉を飲食せねば永遠に生きられないと述べられましたが、当然ながらこれも字義通りではありません。パンとぶどう酒で執り成されましたし、そのためにいかなる旧約聖書での千年王国における動物の犠牲の箇所は、千年統治中に復活する人も含めて全世界の人々が様々な人生の背景を抱えながらも、各人の罪の赦しと清めと完全性への回復に対する「悔い改めの姿勢と感謝」を象徴的に意味していると、新約聖書観点から読み取れます。

犠牲の子羊なるイエスご自身と天国クラスの殉教者クリスチャンが天から新エルサレムを統治して、全世界の異邦人なる諸国民で悔い改めて新生したゆえに命の木の実を食べることを許された人々は、感謝して「罪を征服して勝利した」栄光を携え入れることになるでしょう。(黙示録21:7,24)旧約聖書の動物の犠牲を捧げる描写は、異邦人なる諸国民が悔い改めて新生して罪を征服し神の栄光を得るプロセスの象徴的な描写です。

コリント第一15:40  そして,天的な体と地的な体があります。しかし,天的な体の栄光は一つの種類であり,地的な体の[栄光]は別の種類です。 41  太陽の栄光は一つの種類であり,月の栄光はまた別であり,星の栄光はまた別です。事実,星は他の星と栄光の点で異なります。

コリント第二4:6  神は,「光が闇の中から輝き出よ」と言われた方であり,キリストの顔により,神の栄光ある知識をもって明るくするため,わたしたちの心を照らしてくださったのです。 7  しかしながら,わたしたちはこの宝(栄光)を土の器(聖霊の神殿である人体)に持っています。それは,普通を超えたその力が神のものとなり,わたしたち自身から出たものとはならないためです。

 黙示録21:7 だれでも征服する者はこれらのものを受け継ぎ,わたしはその神となり,彼はわたしの子となるであろう。24  そして,諸国民はその光によって歩み,地の王たちは(神から与えられた)自分の栄光をそこに携え入れるのである。

また7つの目と7つの角がある犠牲の子羊の恩恵を受けるために、我々が何か動物の犠牲を捧げなければ神と和解することができないとか、罪を思い起こすための犠牲など不要です。ヤフワとイエスから流れる命の水は、「誰でも望む者なら価なくして享受できる」と述べられています。

動物の犠牲を喜ばれないヤフワの聖句

 詩篇51:16 あなたは犠牲を喜ばれないからです。―そうでなければ,わたしは[それを]ささげることでしょう。 あなたは全焼燔の捧げ物を楽しみとはされません。 17  神への犠牲は砕かれた霊なのです。 砕かれ,打ちひしがれた心を,神よ,あなたはさげすまれません。

格言 21:3 義と裁きを行なうことは,エホバにとって犠牲よりも好ましい。

イザヤ 1:11 「あなた方の多くの犠牲は,わたしに何の益になろう」と,エホバは言われる。「雄羊の全焼燔の捧げ物や肥え太らせた動物の脂はもう沢山だ。わたしは若い雄牛や雄の子羊や雄やぎの血を喜ばなかった。

エレミヤ7:22 わたしはあなた方の父祖たちをエジプトから連れ出した日に,全焼燔の捧げ物や犠牲に関して彼らに話すことも,命令することもしなかった。 23  しかしこの言葉を,わたしは彼らに対する命令として述べて言った,「わたしの声に従え。そうすれば,わたしはあなた方の神となり,あなた方はわたしの民となるであろう。あなた方は,わたしがあなた方に命ずるすべての道に歩まなければならない。物事が良く運ぶためである」』。

ホセア6:6 わたしが喜びとしたのは愛ある親切であって,犠牲ではなかったからである。また,全焼燔の捧げ物より,むしろ神を知ることであった。

 ヘブライ10:8  初めに,「あなたは,犠牲や捧げ物,また全焼燔の捧げ物や罪の[捧げ物]を望まず,また是認されなかった」と言い ― これらは律法にしたがってささげられる[犠牲]です ― 9  その後,「ご覧ください,わたしはあなたのご意志を行なうために参りました」と言われるのです。彼は,第二のものを確立するために,第一のものを除き去ります。 10  ここに述べた「ご意志」のもとに,わたしたちは,イエス・キリストの体がただ一度かぎりささげられたことによって,神聖なものとされているのです。17  [その後に,]「そして,わたしは彼らの罪と彼らの不法な行ないをもはや決して思い出さない」[と述べている]からです。 18  それで,これらに対する許しのあるところには,もはや罪のための捧げ物はありません。

黙示録22:17 そして,霊と花嫁は,「来なさい!」と言いつづける。そして,だれでも聞く者は,「来なさい!」と言いなさい。そして,だれでも渇いている者は来なさい。だれでも望む者は命の水を価なくして(動物の犠牲制度不要)受けなさい。

キリストが支配する王国においては動物たちは全て草食になり、滅ぼされたりしないことがイザヤ65章25節「狼と小羊は共に草をはみ獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物としわたしの聖なる山のどこにおいても害することも滅ぼすこともない、と主は言われる。」の御言葉で約束されています。

ホセア2:18 その時わたしは、もうこれ以上、互いに恐れることがないように、あなたと野獣や鳥や蛇との間に契約を結ぼう。すべての武器を滅ぼすので、戦争はすべて終わる。あなたたちは、何の心配もなく休むことができる。

https://www.mikeblume.com/heresyliteral.htm 

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