使徒9,22,26章でのパウロとイエスの出会いの記述が矛盾?

2021/09/14

天的クラス

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パウロっちがダマスカスへの旅路の際に光るイエスの幻を受け語りかけも聞きました。使徒9,22,26章においてイエスの声を聞いた、あるいは聞こえなかったの記述があることからも多くの聖書批評家は矛盾点を指摘したりあるいはある人達はパウロを偽使徒呼ばわりすこともあります。使徒9:7の原語 使徒22:9の原語 使徒26:13

各聖句箇所に登場する人は二パターンがある

使徒9:3  さて,彼が旅行をしてダマスカスに近づいたその時,突然天からの光が彼のまわりにぱっと光り, 4  彼は地面に倒れ,「サウロ,サウロ,なぜあなたはわたしを迫害しているのか」と自分に言う声を聞いた。 5  [サウロ]は言った,「主よ,あなたはどなたですか」。彼は言った,「わたしはイエス,あなたが迫害している者です。 6  しかし,起きて,市内に入りなさい。そうすれば,あなたのすべきことは告げられるでしょう」。 7  ところで,一緒に旅をしていた人たちはものも言えずに立っていた。確かに声(ギリシャ語でフォン)の響きは聞こえたが,だれも見えなかったのである。 8  しかし,サウロは地面から起き上がった。すると,目は開いているのだが,何も見えなかった。それで人々はその手を取って彼を導き,ダマスカスの中へと案内した。 9  そして,三日のあいだ彼は何も見えず,また食べも飲みもしなかった。

22:6  「ところが,わたしが旅をしてダマスカスのすぐ近くに来た時,真昼ごろでしたが,突然天から強烈な光がわたしのまわり一帯にぱっと光り, 7  わたしは地面に倒れて,『サウロ,サウロ,なぜあなたはわたしを迫害しているのか』と自分に言う声を聞きました。 8  わたしは,『主よ,あなたはどなたですか』と答えました。すると彼は,『わたしはナザレ人のイエス,あなたが迫害している者です』と言われました。 9  ところで,わたしと一緒にいた人たちは,光は確かに見たのですが,わたしに話している方の声(ギリシャ語でフォン)は聞き取りませんでした。(声の響きは聞いたかもしれないが、理解できなかったの意味、あるいは離れた位置にいるユダヤ人仲間なら声の響きすら聞き取れなかった可能性あり) 10  そこでわたしは,『主よ,わたしはどうしたらよいのでしょうか』と言いました。主はわたしにこう言われました。『起きて,ダマスカスに入りなさい。そうすれば,あなたが行なうように定められている事柄はみな告げられるでしょう』。 11  しかしわたしはその光の輝きのために何も見ることができなかったので,一緒にいた者たちの手に引かれてダマスカスに着きました。

26:12  「こうした努力のさなか,祭司長たちから権限と委任を受けてダマスカスに旅をしていた時, 13  わたしは,真昼に路上で,王よ,太陽の輝きより強い光が,天からわたしのまわり,また共に旅をしていた者たちのまわりにぱっと光るのを見ました。 14  そして,わたしたちがみな地面に倒れてしまった時,わたしは,ヘブライ語で,『サウロ,サウロ,なぜあなたはわたしを迫害しているのか。突き棒をけりつづけるのは,あなたにとってつらいことになる』と言う声(フォン)を聞きました。 15  しかしわたしは,『主よ,あなたはどなたですか』と言いました。すると主は言われました,『わたしはイエス,あなたが迫害している者です。

黙示録1章15節では、イエスの声、水の音、の声と音のどちらもギリシャ語ではフォンです。要は声も音も双方ギリシャ語でフォンと訳されることは多いです。風の音、ラッパがフォンとされる聖句もあります。(ヨハネ3:8;コリント第一14:8)kjvでは声と訳される個所は131個、何かの音と訳される個所は9個です。

使徒9章では一緒に旅をしていた人が声を聞いたとありますが、22章では聞かなかったとあります。これは実は原語の意味を理解すること、また赤文字の旅路の雇われ付添人と青文字の一緒にいた人たちの正体が別のタイプであることも関係しています。9章7節の旅をするの原語はσυνοδεύω(スナドゥオ)であり、上記リンクでは"to journey with, travel in company with"つまり「旅の付き添い、同伴」の意味合いがあるよう説明されています。26章13節における該当箇所の原語は、πορεύω(パルオ)であり、"to lead over, carry over, transfer, to follow one, that is: become his adherent to lead or order one's life"つまり、「誰かに付き添いながら(followなので後ろから追うの意味合いがある)目的地まで送る」意味があります。やはり、ユダヤ人たちが異邦人を奴隷人として雇用するケースが律法で容認されている事例から考えても、旅の付き添い人であり後ろから彼らを追いながら見守りする役目に該当するヘブライ人ではない雇われ人たちでしょう。

青文字の一緒にいた人たちは、英文と原文を確認すると、"the men who were with me"訳され、英語では「賛同する」の意味合いがあります。9節ではwithは、σύν(スン)、11節ではσύνειμι(スナミー)であり特に後者では、ルカ9章18節の「イエスの弟子達が一緒にいた」に使用される原語です。つまりパウロを慕うより関係が近い親密な人たち、またクリスチャンを迫害することにも同意していた厳格なユダヤ人仲間だと推測されます。しかも興味深いことに、イエスはご自分のパウロに発する言葉をクリスチャンを迫害することに賛同中のユダヤ人に聞き取れず理解できないようにすることで、彼らがまさかの自分たちが苦々しい感情を抱く対象であるクリスチャンの主イエスによってパウロが啓示を与えられたことを悟ってしまわないようにされました。つまり目的地に必ずたどり着くまでに仲間割れしないように幻で出現するタイミングを取り計らわれたのでしょう。

その証拠に青文字の人たちは、声の内容を聞き取れずまたは理解せずとも、22章にてパウロが光によって目が見えなくなった状態の際にも率先して手助けしながらダマスカスに連れて行きました。この時に旅の付添人なる赤文字に該当する人たちは、目的地まで送り届ける役目を担ってはいるので、目が見えないパウロを先導する彼のユダヤ人仲間である青文字の人たちのことを後ろから追いながら見守っていたでしょう。

かなり重要なポイントですが、正午の時間にはサウロ(パウロ)のような厳格なユダヤ人たちは祈りの時間に専念するために静まります。ユダヤ教では安息日のみならず平日にも、祈りは1日3回あります。朝の祈りはシャハリート、午後の祈りはミンハー、夕べの祈りはマアリブと呼ばれます。その際にパウロの旅の雇われ付添人は、自分たちと荷物を馬から降ろしてパウロを見守りながら休息を取ります。そして、一方で青文字に該当する一緒にいたと表現されるユダヤ人仲間たちも同様に馬から降りると各自少し離れながら、祈りや黙想に専念したことでしょう。

この条件下で説明するとおおよそ理解できます。

9章の説明

使徒9章では、パウロの旅の付添人がパウロの近くにいたので、一緒に光を見て声も聞いたのでしょう。(声による語りかけの内容を理解していたかは定かではない。おそらく声は聞いても22章の通り、付添人らですら内容は明確に理解してなかっただろう。)付添人は一緒に地面に座り込んでパウロや他のユダヤ人たちが休憩したり祈っているのを見守っていたと思われます。また前後しますが26章では、付添人含めたパウロたちが光に圧倒されて腰を抜かし地面に倒れた時にパウロが声を聞いたとあります。要はパウロ自身は直接イエスなる光に「サウロ」と呼びかけられて明確に自分が語りかけられてる奇跡に腰を抜かしたまま拍子抜けで起き上がれなかったと思われますが、周囲の付添人は「なんや光ってるけど誰もおらんやないか、ヘブライ語かこれ、サウロって聞こえたような気がする、ワテらが標的やなかったんやよかよか」とか思いながら立ち上がり、それでも語りかける声を聞き続けながら驚愕し棒立ちしてもうたのでしょう。ややこいが、一旦腰抜かして立ち上がって固まるっちゅうこっちゃ。

22章の説明

続く使徒22章やが、パウロのユダヤ人仲間が聞き取れへんかったとある。当たり前やが休憩中に馬から降りて男ども複数で固まっているよりリフレッシュのために互いに少し距離を取りつつ、正午の大切な祈りの時間、あるいは休憩に費やしていたために、光る何かを見たけど声を十分に聞き取ることはできへんかったのでしょう。この「聞く」のギリシャ語はアコウオやが、「理解する」の意味で使用されることが聖書中で多々あります。要は発声自体は聞こえるんやが、「理解」ができへんかった、なぜなら互いに距離とってたからやっちゅうことが推測できる。

特に22章ではパウロが過去を回想しながらも「ユダヤ人相手」に伝道していることがポイント。ユダヤ人相手に「当時のユダヤ人仲間はワテの付添やのうて少し離れたところにおったから、声が何を語ったかまで理解でけへんかったから証人にはならへんけどな、ほんまの話やねんで」とユダヤ人の大衆に語りかけていると思われます。または、あくまで同胞たちは実際に声を聞き取ることができないほど遠くにいたかもしれません。(ヘブライ人やないかもしれん旅の付添人とユダヤ人仲間は聖句でも明確に区別しているし、ここでは同胞なるユダヤ人相手にユダヤ人の証人がおらへんっちゅうことを言うてる)

26章の説明

ほんで26章やが、パウロがカイサリアでの拘留中にアグリッパ王含めた異邦人に向けて説明している。光を付添人含めてパウロがもろに食らって地面に倒れてもうて、その時にパウロが声を聞いたとあります。またパウロだけ目くらましに3日間なったことがわかる。このことからも付添人にとっては光のショックは少なく、パウロと異なり光見てビビって地面に倒れたけど、声も聞きながらにすぐに立ち上がったんやろう。これで9章の立ったまま固まったとする記述と辻褄が合う。

22章にあるが、一人に一頭馬があてがわれてるような旅路やったとしても、盲目のパウロが馬に乗らずとも、真ん中に挟まれながら、馬の手綱掴みながら荷物だけ馬に乗せてゆっくり手引してもろたやろう。ダマスカスまで近いしな。パウロの旅の付添人は目が見えへんパウロに驚いたけど、彼の同胞が責任持って手引してくれてほっとして後ろを追いながら見守ったやろう。

全員声は聞いたが「理解」してへんかった

こないな感じで原語の意味を理解すれば、「聞く」がそもそも「理解する」を意味しているから、全部の聖句にてとりあえず全員発声音(フォン)自体は聞いたが、「理解ができなかった」と解釈することで矛盾なく統一はできる。なぜならそもそもそないに人が固まって一箇所で休憩するよりもまともな人なら互いに距離を置くのが普通やし、イエスはパウロに栄光を見せるためにあくまで選びの器の彼だけに語りかけてるから、付添人もユダヤ人仲間も光は見ても誰も見えへんし、その語りかけの発声は聞こえても内容までは「理解できへん」かったやろう。声の響きは聞こえたけど、誰かが語る言葉として理解できへんかったわけや。

ワテとしては、パウロの旅の付添人がパウロやユダヤ人たちの見守りする役目で仕方なくかなりパウロの近くにおったから光に多少圧倒されて一瞬地面に伏せたけど、すぐ立ち上がりながら発光体から発声を聞いてもうて固まったと解釈する。一方でユダヤ人仲間はそもそもそないパウロの近くにべったりおったわけやないし、正午の時間で一息ついてる時に光る何かがパウロに語りかけてる発声を聞いたが(発声すら聞こえてないとする解釈でも可)、原語のアコウオの意味の通り、何を語られているかは「理解できへんかった」と推測できる。

まとめ

筆者ルカが様々な人に取材をして書き留めた伝記やから、人によってある出来事が大きく印象に残ってることがあるのは不思議やない。光に驚き全員倒れた←これは印象的やから、その後パウロ以外は部外者やから立ち上がったのは間違いないが、一旦は皆が倒れるほど強烈な体験やったんやろう。声を聞いた←何らかの発声は聞こえたんやが、「理解はできへんかった」

パウロの幻視体験に食い違いがあるように思えるから偽使徒呼ばわりする教祖もいてるが、どう考えてもパウロは十二使徒ではないが、異邦人への一種の使徒として144000人の象徴数なる殉教者の天国クラスに分類されるであろう。

原語から確認していくと、辻褄も合うから特に問題はない。

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