聖書を信じるクリスチャンはクリスマスを祝うべきですか

2022/12/20

証や体験談 大バビロン

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今年もクリスマスの時期がやってきましたね。皆さんはどう過ごされますか? 昔は「異教の祭りだからNG」なんて真面目に考えていた時期もありましたけど、今となってはクリスマスどころか正月すら「ただの年中行事」というか、本質的にはどうでもいい境地に達しています(笑)。 Twitter(現X)を見ていると、陰謀論系のクリスチャンが「クリスマスは異教崇拝だ!」と鼻息を荒くしていますけど、彼らは彼らでフラットアースだの真相論だの、別のパラレルワールド(認知の歪み)に夢中になって大騒ぎしているので、構造的には同じ穴の狢(むじな)と言えるでしょう。

思考停止しない、賢い祝い方とは?

ガラテア5:19 生まれながらの悪い性質、つまり肉に従った結果がもたらすものは明らかです。すなわち、汚れた思い、好色、 20偶像礼拝、心霊術、憎しみ、争い、怒り、利己心、不平、あら捜し、排他主義とそこから出て来るまちがった教え、 21ねたみ、人殺し、泥酔、遊興、そのような種類のものです。前にも言いましたが、もう一度言いましょう。そのような生活を続ける者は、一人として神の国を相続できません。

正直、どうでもよすぎて記事にするか迷ったくらいですが、AI的な客観分析を交えた個人的な見解を言いますと、結論「好きに祝えばいい」です。このブログの読者層でガチガチに祝う人は少ないでしょうけどね。 ただ、心理学的に見てアウトなのは、肥大化した自己愛や見栄のために、SNSやメディアで「アピール」をして承認欲求を満たそうとする人たち。ああいうマウント型の遊興は、聖書的にも精神衛生的にも間違いなくアウトです。

逆に、普通の一般家庭がクリスマスツリーを飾って、日頃の労働の疲れを癒すメンタルケアの時間として、ケーキやチキンを家族で楽しむくらい、何の問題もありません。近年は日本でもネット論壇を中心に「疑似クリスチャンブーム」みたいなものが到来していて、やたらと「クリスマスを祝うな」と他者にマウントを取ったり、預言者気取りで警告アピールをする人が増えていますが、見てるこちらが恥ずかしくなります。

コロサイ2:16 それで,何を食べたり飲んだりするかに関して,あるいは祭りや新月や安息日を祝うかどうかに関して,誰も皆さんを非難すべきではありません。 ガラテア 4:10 皆さんは日や月や時期や年にこだわっています。 11 私は皆さんのことが心配です。皆さんのために苦労したことは無駄だったのだろうか,と思います。

一般の日本人が子どもにプレゼントを渡すような、微笑ましい利他的な光景を、わざわざ「異教だ」と呪ったり冷笑したりする必要は皆無です。歴史的な起源がどうあれ、そこに現代的な「宗教的崇拝の意図」は介在していないからです。だからワテとしては、祝うか否かの形式論なんて本当にどうでもいいと考えています。

もし「望ましいクリスマス」を定義するなら、社会的に孤立している人に手を差し伸べたり、コミュニティへの慈善活動にリソースを使うことでしょう。ただ、これにも罠があります。Twitterでも「ホームレスの人を無償で支援して住居やお金を提供したのに、全部タバコやギャンブルに消えて裏切られた。イエス様のように歩むのは辛い」と燃え尽き症候群(バーンアウト)になっている人を見かけました。他者への無条件の奉仕には、モラルハザードのリスクが常に伴います。

ルカ14:12 また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んへの一歩を。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。 13宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。 14そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」

他者の良識やリスク度合いを見極めるのはシステム的に困難な時代です。この不況下、変質者やリスク要因も増えていますから、誰彼構わずアプローチしてトラブルに巻き込まれる必要はありません。新約聖書(マルコ6:7)でも12弟子を「二人一組」で派遣しているリスクマネジメントの前例があります。独断で動くより、複数人で防衛線を張ることが大切。結論、自分のキャパシティ(許容量)を超えてまで無理をする必要はない、という最適解に行き着きます。

エホバ教とTwitterカルトの「自己正当化」バイアス

エホバ教(エホバの証人)は昔から、クリスマスをはじめとするあらゆる祝祭日、冠婚葬祭の拒否、果ては学校の柔道の授業や騎馬戦まで禁止することで社会との「差別化」を図ってきました。独自の過激なルールを自他に課すことで、「自分たちは義にかなっている」という集団的アイデンティティを補強し、優越感に浸ってきたわけです。

面白いことに、ネットの真相論経由でクリスチャンになった人たちも、これと全く同じ心理プロセスの罠にハマっています。「私はクリスマスを祝わない」とアピールすることで、他者に道徳的マウントを取り、預言者気取りで不毛な論争を消費している構図です。

ワテ自身はクリスマスを祝いませんけど、他人のプライベートの細かな選択に介入して「祝うな」「あれしろ」とやるのは、無駄な社会的摩擦(口論)を生むだけなので非合理的だと思います。このクリスマスという文化プラットフォームを伝道や善行にハックして活用する分には自由ですし、不景気の中で子どもたちの笑顔のために親御さんが頑張って演出している微笑ましい雰囲気を、歪んだ「正義感」で全否定するなら、それはエホバ教の排他システムと同レベルです。

そもそも、我々が毎日使っているセブンイレブンもファミリーマートも、現代のグローバル商業システム全般は、彼らの言う「大いなるバビロン(イルミナティ・フリーメーソン由来の資本主義)」そのものです。そのインフラの恩恵を365日受けておきながら、年に1〜2日、背景も知らずにケーキを食べることが「神を悲しませる大罪だ」と本気で信じているのだとしたら、その認知フレームワーク(神の定義)は少しズレていると言わざるを得ません。

神の視点から嫌われる「本当の不義」とは

エゼキエル16:49 お前の妹ソドムの罪はこれである。彼女とその娘たちは高慢で、食物に飽き安閑と暮らしていながら、貧しい者、乏しい者を助けようとしなかった。

アモス5:10 彼らは町の門で訴えを公平に扱う者を憎み真実を語る者を嫌う。11お前たちは弱い者を踏みつけ彼らから穀物の貢納を取り立てるゆえ切り石の家を建ててもそこに住むことはできない。見事なぶどう畑を作ってもその酒を飲むことはできない。12お前たちの咎がどれほど多いかその罪がどれほど重いか、わたしは知っている。お前たちは正しい者に敵対し、賄賂を取り町の門で貧しい者の訴えを退けている。21わたしはお前たちの祭りを憎み、退ける。祭りの献げ物の香りも喜ばない。22たとえ、焼き尽くす献げ物をわたしにささげても穀物の献げ物をささげてもわたしは受け入れず肥えた動物の献げ物も顧みない。23お前たちの騒がしい歌をわたしから遠ざけよ。竪琴の音もわたしは聞かない。

これらの預言書の文脈を論理的に読み解けば、非難の対象はイベントの形式ではなく、社会構造的な不正(弱者から搾取して富を独占するマインド)であることが分かります。平均的な年収で慎ましく生きる一般人が、自分や家族を労って安らぐことは罪ではありません。 ただ、マクロ経済の視点として、クリスマスというシーズンを利用して資本家たちが大衆消費を煽り、一般市民が彼らの養分(カモ)にされている資本主義の構造そのものには、冷徹に注意しておく必要があります。

海外のいわゆる「セレブ」と呼ばれるインフルエンサーや公人たちの背景を見れば、彼らの贅沢極まりないクリスマスの祝い方こそ、上記の聖句にある「神に嫌われる不義の祭礼」の典型例でしょう。

ヨハネ第一2:15 世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。 16なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。 17世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。

セレブたちの態度は高慢な「生活のおごり」そのものであり、自己顕示欲の奴隷となっています。メディアやハリウッドのエンタメシステムは、虚構のメロドラマ(感動の消費)を流して大衆を盲目(酔わせる)にさせますが、その裏のリアル社会には、人知れず身を粉にして弱者救済に動く真の善人がいます。 悪魔が提供するエンタメの幻想にエモーショナルに酔いしれるより、社会の現実を直視すべきです。クリスマスを楽しむ一般人を責める必要はありませんが、こうした搾取層や操り人形たちの醜悪なシステムを無批判に受け入れることは、不正な構造を支持することになってしまいます。

まとめ結論

ワテ自身は祝えへんけど、皆さんが家族でささやかにプレゼントを交換し合うことを罪だとは思いません。逆に、Twitterのカルト民やエホバ教のように「祝わないこと=正義」として一般人にクソリプや論争を仕掛けるより、クリスマス特需を利用して私腹を肥やすメディア上層部や悪徳インフルエンサーの搾取構造の方が、よほど不道徳的(ダーク)だと思います。ワテならそっちを警戒しますね。

一般の人が日頃の疲れを癒すためにクリスマスを利用することは無罪です。もし余裕があるなら、セキュリティ(安全確保)を考慮した上で、二人一組でささやかな慈善活動をしてみるのも社会的アプローチとしてお勧めです。不況ゆえに無理のない範囲で。

たった1〜2日の行事を拒否したところで、平素の生活において愛情や誠実さ、謙遜といった「霊の実(倫理的徳目)」を出さない宗教人やネットのマウンターたちは、新約聖書におけるパリサイ人の構造そのものです。ルカ18章11-12節にある、あの「私は他の罪人のようではありません、断食も献金もしています」というセリフよろしく、「私はクリスマスを祝いませんし、律法を守っています」とTwitterでドヤ顔報告しますか?って話です。

それは内実を伴わない「見せかけの敬虔」であり、ただの自己満足です。宗教的要素が抜けた現代のライトな祝い方(ケーキを食べる程度)に目くじらを立てる必要はありません。私たちはすでに、バビロン的資本主義のシステムの中でしか生きられない不可避な現実の中にいるのですから。

結論、「クリスマスを祝う=即、罪人」という単純な二分法は成り立ちません。 ただ、多くの生活困窮者を構造的に無視しながら、「サンク・スウィート・ジーザス♪」なんて言いながら高級チキンを貪り食う、アメリカ的・弱肉強食資本主義のメンタリティでイエスの名を利用する教会や富裕層のスタンスは、大いに批判されるべきです。

一方で、「クリスマス反対」を唱える過激なクリスチャンの中に、日頃は放縦に遊びほうけて他者への配慮がゼロな不誠実な人がいるのもまた事実。結局のところ、イベント1つの成否で天国行きか地獄行きかなんて、アルゴリズムのように単純には裁けません。常識的な人々が、慎ましく穏やかな幸福感(安息)を得るためにこのシステムを利用することは、道徳的なバグ(罪)にはならないでしょう。

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