カルト教会の特徴
- 教会の集会が、神を求めたり神の愛に満ちたりする場でなく、お金を集めるための献金や牧師が相談料として金銭を要求したり、伝道、奉仕、祈りの時間、聖書通読したボリューム等の報告を強制し、教会のブログやyoutubeなどのSNSを拡散させて営業成績をつけたり、目標達成のための仕事の場のように感じられる。
- 牧師が、地域の他の牧師たちと交流せず、他教会を自分たちの脅威とみなす。
- 自分たちだけが本物の教会とか選民であるという印象を与える。(これは大きな特徴です。しかし、だれも神を独占することはできません。)
- 教会のリーダーを指導してくれる所属教団等がない。教会のリーダーに、だれかに対する説明責任(アカウタンタビリティー)がない。(すべての人に、自分を正したり、忠告したりしてくれるだれかが必要です。)集う人が教会のリーダーに意見することが絶対に許されない。
- 自分たちの教会だけが最先端(夢幻や神の肉声を聞く等の神秘体験の強調、警告する預言者になるべき)を行っているという意識がある。
- イエスさまに熱心で他の教会に移った、あるいは該当教会の信条や思想を受け入れなかったり、信仰を辞めた元メンバーと連絡を取ることが許されない。
- 牧師のために何度も祈ったり祝福したり肯定的な返答をするように命令される。(普通は信者が牧師に祈ってもらい養われる)
- 肉親に代わって教会が「本当の」家族になったと教え、私生活のプライバシー深くまで詮索し裁きたがる。
- セクシャルな問題に対しても男性長老や牧師が女性信者に詰問したりする権利が神から与えられていると説き伏せる。
マナセ王は赦されたが国家全体はどうか
歴代第二33:11 そこで主は、アッシリアの王の将軍たちに彼らを攻めさせられた。彼らはマナセを鉤で捕らえ、一対の青銅の足枷につないでバビロンに引いて行った。 12彼は苦悩の中で自分の神、主に願い、先祖の神の前に深くへりくだり、 13祈り求めた。神はその祈りを聞き入れ、願いをかなえられて、再び彼をエルサレムの自分の王国に戻された。こうしてマナセは主が神であることを知った。
列王第二23:25 彼のように全くモーセの律法に従って、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主に立ち帰った王は、彼の前にはなかった。彼の後にも、彼のような王が立つことはなかった。26しかし、マナセの引き起こした主のすべての憤りのために、主はユダに向かって燃え上がった激しい怒りの炎を収めようとなさらなかった。
これは少なくともマナセ王の極悪非道な行いを嘆き悲しみ憎むどころか、無関心あるいは一緒に支持をしていた人たちが多かったからではないでしょうか。過去よりノアやロトやダニエル等の賢人や義人たちは起きている事柄において憂いていた様子がペテロ第二2章8節で「なぜなら、この正しい人は、彼らの中で生活していたとき、毎日よこしまな行為を見聞きして正しい心を痛めていたからです。」と見られますが、それが故に義人として主に映っていたとあります。
マナセ王は深く憂いてはいましたが、それの害を被らなかった人たちや取り巻きは無関心どころか全くその残虐行為を楽しんでいた可能性もあるのではないかと推測されます。なので、結果として怒りが収まることはなかったのでしょう。エゼキエル9章には「都の中、エルサレムの中を巡り、その中で行われているあらゆる忌まわしいことのゆえに、嘆き悲しんでいる者の額に神の印を付けよ。」とあります。ですから、現時点での惨劇やカルト体質に違和感を覚えて意気消沈している人たちこそが、義とみなされるのでしょう。
カルト教祖や宗教を支持する平信徒
これに関してやっと結論を書きますが、容易に想像できるでしょう。一緒にカルト教祖を焚きつけて支持したり宗教活動に熱心になるあまり憐れみや公正を忘れ、他人を赦さず宗教的制裁を絶対化する体質を神からの命令とか支持して、その弊害によって苦悩する人たちの存在を軽んじているなら、マナセが許されても民たちが許されなかったように、カルト教祖が熱烈に悔い改めても平信徒側が許されないなんてこともあるでしょう。
エホバの証人の内部では「統治体が間違っていてもそのうちエホバが裁くだろうし。僕たちはできる限りをするだけ。」とかの他人事とみなす発言をする方々も多くいらっしゃいます。しかし、実際にエホバの証人側の組織崇拝による聖書に確認されない過剰に人を裁いて責めたりあろうことか正しい人たちを追い出し無視させたりする人権侵害行為によって苦悩する方々もいることは事実です。
このことを重く受け止めなければ、やがてその宗教組織が流してきた血(実際にやり過ぎな排斥制度によって自殺をされた方もいる)の責任を平信徒たちも一緒に問われる可能性も十分あり得るのではないかと思います。やはりカルトを構成するのは一人ではないわけです。それを支持する側の熱意と他人の痛みへの無関心さによって支えられます。
ですから、少なくとも組織側の都合で友人だった仲間や一時的に失態を犯した人、はたまた信仰を捨ててしまった人、カルトに冷静に意見を物申す人たちを言語道断で追い出し悪魔とか背教者呼ばわりとか無視して神を崇拝している気持ちになる有様は、マナセ王を支持してその惨劇を喜んでいた民たちと全く同じことをしているがゆえに、結果として終末には大いなるバビロンの裁きを被る可能性もあるのかもしれません。
異様な人に攻撃されるネット上の体験談
ブログで基礎知識を書く意図
マタイ15:14 そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」


0 件のコメント:
コメントを投稿