異邦人への伝道を示され新しい契約を支持したペテロ
コリント第一1:26 兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。 27ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。 28また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。
これは、新しい契約下では国籍や民族等の呪縛が全く作り変えられて無効になることを物語っています。使徒10章15節では、使徒ペテロが清くないとされる食物を受け入れるように幻で主から命じられ、その後カイザリアに住むイタリア人の百人隊長コルネリウスやその家来を含めて律法では外国人なる異邦人との接触を禁じられていたものの、聖霊にそれを無効にするよう告げられたことをコルネリウス含めた出迎えに来た大勢の外国人に以下のように述べました。
使徒10:28 彼らに言った。「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。 34そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。 35どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。44ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。 45割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。 46異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである。
ガラテア3章28節にて、「28そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。
29あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。」とある通りです。
ある人たちは、創世記49章27節にて「ベニヤミンはかみ裂く狼朝には獲物に食らいつき夕には奪ったものを分け合う。」
とあり、ベニヤミン族は羊の皮を被ったオオカミであり偽預言者だと考えパウロを偽使徒呼ばわりします。確かにパウロは最初はクリスチャンという獲物を狙い食らいつくオオカミでした。しかし、その後は彼自身クリスチャンとしての人生の競争を終え殉教しました。
それでも依然としてイエスが「羊の皮を被ったオオカミ」と表現しているために、ベニヤミン族のサウロことパウロがそれに該当するという方がいます。
ライオンとオオカミ
聖書中では、キリストはユダ族のライオンと称されています。(啓示5:5)一方で悪魔サタンも吠えるライオンのように誘惑し死に至らしめる機会を伺っているとあります。(ペテロ第一5:8)つまり、悪の象徴と思わしき動物が良い悪いの双方の意味合いで聖書中に登場することがあります。またイザヤ11章6-9節にて、「オオカミが羊と共に伏す。幼児が毒蛇を導く。」つまり平和に共存する描写もあります。マタイ10章16節では、「蛇のような用心深さ」が必要とも言われるほどです。ですから、悪い意味合いで使用される象徴的な動物を万人に当てはめることは柔軟性の無い解釈になり得ます。ユダヤ人絶滅の危機を回避させたエステル、モルデカイもベニヤミン族出身です。(エステル2:5-7)
パウロは創世記49章27節において、朝つまり人生の序盤では、パウロがサウロとしてクリスチャンへの迫害をしていた時期は律法を盾に神への従順を装う羊の皮を被った獰猛なかみ裂くオオカミだったでしょう。しかし、夕つまり終盤頃には分捕り物を分け合う、ユダヤ人が独占していた信仰や教え、サウロやパリサイ派たちに迫害されて殉教していった彼らの救いを他国へ共有する器となりました。一世紀にキリストの救いが異邦人に共有された出来事は、キリスト再臨時のオオカミと羊の共同生活のひな型です。そのことは、聖書外典に記されています。
The Testaments Of The 12 Partriarchs(十二部族長の遺言)
これは、”The Testaments Of The 12 Patriarchs”と呼ばれていますが、日本語に訳すとおおよそ見出しのようなタイトル名になります。イスラエルのクムラン洞窟で発見された死海文書の一つでありながら、様々な書簡が寄せ集められて、1666年オスカンアルメニア正教会版聖書として保存されていたようです。以下はこちらを引用 ; こちらも引用ルベンはその遺言の中で、主にビルハとの間に犯した罪を嘆いている(創35:22)。その罪の詳細は聖書の記述にはないが、酔って寝ているビルハを勝手に犯し、その後七ヶ月だけ腰に腫れ物ができ、その後ヤコブに励まされ治ったことが記録されている。ヨベル記に見られるものと類似している。ルベンは、罪への誘惑はさまざまな欺きの霊や誤りの霊によるものだとしている。彼は、姦淫の罪に対して非常に強い警告を与え、女性たちが男性たちを惑わす邪悪な方法について非難している。証書の全体はルベンの人生での過ち、その後の教訓についての弁明である。
次の証言はシメオンに割り当てられたものである。シメオンは主に、ヨセフに対する憎しみと虐待によって数か月だけ手の力を喪失したことを語る。その後彼はヨセフの善良さを認め、自分の悪い態度を悔い改め、その一方で、息子たちに偽りやねたみを戒め、純粋でまっすぐな生き方をするよう諭している。姦淫に対する簡潔な警告は、ルベンの遺言に見られるのとほぼ同じ精神で与えられており、この関連でエノクの文書が参照されている(5:3f.参照)。
それに続くレビの遺言は、主に終末論的な特徴を持つ。レビは深い眠りに落ち、天が開かれ、天に関する説明が与えられる。シュケム人への裁きをするよう天使に言われたとの記述はギリシャ語版にはないので、加筆の可能性が高い。さらに別の幻を見るが、その幻では7人の白衣の男たちが彼に祭司服を着せる。レビには、彼の子孫が預言者、祭司、王の三つの職に就くという約束が与えられており、これはメシアの到来を示すしるしである。その後、一般的な訓戒とともに、短い伝記の部分が続く。そしてレビは、その子孫の堕落、特に時代の終わりにおける堕落を預言する。この堕落には性的な罪が特に大きく関わっている。神殿の破壊が予言されているが、これは70年のことであろう。最後には、栄光の "新しい祭司 "が現れ、すべての聖徒は喜びを身にまとう。
次はユダの遺言で、ユダがライオン、熊、猪、豹、野牛を倒し、カナン王らとの戦いに打ち勝ったことの宣言から始まる。エサウによるヤコブの息子たちへの襲撃とヤコブの勝利が記されている。ヨベル書に記されている記述とここに記されている記述にはかなりの類似性がある。ユダはタマルにまつわる罪深い出来事について、説明と弁解を交えて語っている。ユダは自分の子供たちにまっすぐな生き方を諭し、特に貪欲、酩酊、姦淫を非難している。ユダは子供たちの淫乱と悪行を憂い、彼らが皆悔い改める日を待ち望んでいる。
イッサカルの遺言は、前の2つの遺言よりもずっと短い。聖書の記述でおなじみのマンドレイクのことが主に語られている。この遺言には悲しみや悔い改めはほとんどなく、それどころか、イッサカル側には、自分が生きてきた良き人生に対する高揚感がかなりある。彼は息子たちにも同じような人生を送るよう勧めている。
ゼブルンの遺言もまた短く、ヨセフの身売りに関することがほとんどである。ゼブルンは、自分はこの事件でほんのわずかしか関与しておらず、金も受け取っていないと宣言して正当化している。彼は、自分がそうであったように、他の人々にも思いやりを示すよう息子たちに勧めている。
ダンによる短い遺言の中で、ダンはヨセフの運命を喜べるほど憎んでいたことを告白し、それゆえに怒りを避けるよう子供たちに戒めている。(創世記37:19-21)この怒りは、特定の悪霊ベリアルのせいにされている。ダンは、怒ることは危険であり、避けなければならないことを示唆している。
ナフタリの遺言は、その母ビルハの系図から始まり、その父はロテウスと呼ばれ、エノクの記述を参照した一般的な勧告がいくつかある。レビが太陽を、ユダが月をつかむというナフタリの幻の話が続く。ヨセフは雄牛を捕らえてそれに乗り、兄弟が離れ離れになる海上の嵐が起こる。レビとユダから生まれる将来の救いについては、別の言及がある。
ガドはヨセフへの憎しみを認めており、その遺言書の全編が憎しみのテーマで占められている。ガドは息子たちに愛と配慮を示すように勧めており、最も崇高な人格とは何かが語られている。
アシェルの遺言では、知恵の書やヤコブの手紙に似た調子で、偽りではなく義への従順が一般的に強く勧められている。いくつかの教えは、「二つの道」の教義に沿って展開されている。
ヨセフの遺言は主に、ポティファルの妻によるヨセフの誘惑についての長い記述に関係している。彼女の悪徳から彼を守ったのは神であり、この出来事全体が、ヨセフの息子たちに道徳的な教えを与える機会となっている。福音書の言葉(1:6参照)との類似点がかなり多い。処女が征服する子羊を産むという重要な言及がある(19:8参照)。
最後の遺言はベニヤミンの遺言である。この作品は、ヨセフがベニヤミンにエジプトに売られたときの説明から始まる。ベニヤミンは子供たちに、欺きと性的不道徳を戒めている。11章の最初の2節は、しばしば使徒パウロを指しているとされる。
不吉な数字の年代に思えますが、十二部族長の遺言含めた他の外典とされる書簡も当然ですがそれぞれ別の時期に完成され、それらがあくまで上記の年代の頃合いに寄せ集められその段階で可能な範囲で入手できるコレクションが網羅されたと考えられてアルメニア正教会版として大成されています。その中でも今回取り扱うものは、ヨハネ・ヒルカノス1世が統治する時代中の西暦前109~106年あたりに、厳格なパリサイ派ユダヤ人が書き留めたとも言われますが、作者不明です。マカバイ高位一族との交友関係があって政治的思想が背景をもとに書簡が完成されたと言われますが、聖書正典と矛盾する霊魂不滅等の内容が確認されないために、引用するクリスチャンは多くいます。
この書簡は、十二部族の長たちが死に際に語った預言的な話で構成されています。各部族長の遺言のおおよその要約はこちらで確認できます。性的不道徳、欲情、妬み、怒り等の悪感情に支配されないよう説く訓戒が多く含まれています。厳格なパリサイ派が書いたこと、またパウロが誕生し活躍する百年も前に書き留められていることからも、目を見張るものがあります。
テサロニケ第一2章16節はレビの遺言6章10-11から、ローマ12章19節はガドの遺言6章7節から、ローマ12章21節はベニヤミンの遺言4章3節から、コリント第二7章10節はガドの遺言5章7節から、エフェソス5章6節はナフタリの遺言3章1節からの引用になります。
スラブ語、アルメニア語、ギリシャ語版がありそれぞれ互いに無いストーリーを含んでいる部分もあり、以下の聖句の「かみさくオオカミとは呼ばれなくなり、主の御心を行い食べ物を異国の人へ分け与える」程度の預言があるかもしれませんが、パウロの詳細含めて今回日本語で掲載しない箇所の他の部分も現物を確認できてないので何とも言えませんが、アルメニア版には存在しないようです。しかし、ウィキペディアによると、ヘブライ語かギリシャ語が最も古いと考古学者たちも捉えているようですし、多くの海外の聖書研究発信者たちはギリシャ語版を主に使用しています。ユダヤ人の口伝えによって編纂翻訳されて受け継がれたオリジナルの原本とされるギリシャ語版にはパウロらしき人物への預言があります。
11:1 わたしはもはや、あなたがたの猛威のゆえに、かみ裂くオオカミと呼ばれることはなく、ヤフワの働き手として、善いことを行う者に食物を配るであろう。2 また後の世にわたしの子孫から、ヤフワに愛され、地上で御声を聞き、御心の善い行いをする者が現れ、新しい知識で他のすべての民を啓発し、知識の光までも与え、救いのためにイスラエルに飛び入り、狼のように彼らから(救いの恩恵を)引き離し、他の民の会堂に与えるであろう。(3節以降は写本によって無いことがある。加筆されている可能性がありか。)3 彼は時代の完成の時まで、他の民の会堂に、またその支配者の中にあって、すべての人の口の中に音楽の調べとしてあるであろう。4 彼はその業績も、その言葉も、聖なる書物に刻まれ、永遠にエロヒムの選ばれた者となるであろう。5なぜなら、わたしの父ヤコブがわたしに命じて言ったからである。「彼はあなたの部族の不足を補うであろう」と。
興味深いことにベニヤミン族におけるヤコブのかつての古い預言は無効にされ立場が逆転しています。イスラエルが独占していた救いをオオカミのようにそれらから引き離し、異邦人へ新しい契約として啓もうしました。そのことは、イエスも「神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」と述べている通り、義を誇るパリサイ人から謙遜な異邦人たちへ福音は譲渡されることで実現しました。(マタイ21:43)
さらにマタイ20章16節の「多くの先の者は後になり、後の者は先になる」の言葉においても履行されています。ベニヤミン族は十二部族の中の末っ子です。コリント第一15章9,10節にて「神の教会を迫害したから使徒と呼ばれる資格はない」と公衆の面前で認めることができ、あらゆる人の前にて奴隷人の立場を取る末っ子ベニヤミン族の器パウロが出現しました。
- 「私はもはや、あなたがたの貪欲な狼と呼ばれることなく、ヤフワの働き手と呼ばれるであろう」-パウロは、生ける御言葉に出会って完全に、根本的に変わるまで、メシアの信者を追い詰める狼でありました。(使徒9章)
- 「後の世に、私の子孫から、主に愛された者が立ち上がるであろう」-パウロはベニヤミン族の出身です。(ローマ11:1)
- 「善いことをする者に食物を配る」-パウロは食物、命のパン、神の言葉を配りました。(使徒20:7)
- 「地上で御声を聞く」-パウロは地上でイエスの聞こえる、生きている声に出会い、聞きました。(使徒9章)
- 「イスラエルに飛び入り救いを取り上げ他の民族に与える」-パウロはユダヤ人を得るためにユダヤ人になり、全ての人の奴隷として臨機応変に律法に縛られない。(コリント第一9:20)
- 「時代の完成まで、彼は他の民の会堂にいる」-パウロは他の民(異邦人)の会堂に行き、それ以来、彼の言葉は集会で伝えられ続けています。(使徒13:46)
- 「すべての人の口の中の音楽の調べとして」-パウロの言葉の多くは、今日、異邦人や信者の間で歌われる歌になりました。
- 「彼はその業績も言葉も聖なる書物に刻まれる」 - パウロの著作は聖書である「聖なる書物」にあり、新約聖書の大部分を構成しています。
- 「彼は、あなたの部族の不足を補うであろう」- 異邦人が満ち足りるまで、イスラエル(血統霊的双方)には部分的な硬化が起こっています。(ローマ11:25)
しかし、⇒今やパウロの功績で西方に広まったキリスト教は背教し古代イスラエルと同じ運命を辿り大バビロンになることは、パウロ自身が黙示的に預言していました。救いは当時と同じく霊的イスラエルなる西洋キリスト教から離れて、血統イスラエルの日本含めた東方の異邦人なる未信者に移り渡ることになります。それは多くのクリスチャンが滅ぼされてイエスを知らない善良な未信者が救済される千年統治開始時にそうなります。
右手を意味するベニヤミンを切り離す
ペテロ第二2:21 義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる掟から離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのためによかったであろうに。
3:16 その手紙でパウロは、ほかのすべての手紙でもしているように、このことについて語っています。その中には理解しにくいところがあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の箇所と同様、それらを曲解して、自分自身に滅びを招きます。
イエスは躓かせる右手があるならそれを切り取りなさいと言われました。ある人たちは、ベニヤミン族が右手を意味しておりパウロは躓きの原因であるから切り離さなければいけないと言い張ります。
マタイ5:30 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。
しかし、それはイスラエル国家がヤフワと旧約聖書にて契約を結んだ以降に背教し、その律法を曲解し憐れみや公正を無視しある意味で躓きとなりキリストを磔にしたのと同じことでしょう。
必ずしも右手を意味するベニヤミン族のパウロの存在が万人全てに躓きとなるわけでないことは確かです。しかし、義の道を知らない方が良かった人もいると述べていることから、新約聖書を学んだ後に、パウロの恵みの言葉の表現のみを文脈無視しながら強調し、変なキリスト教を広めて偽教師となりそれで金儲けしたり圧政者となってしまうのであれば、一旦それを切り捨てなさいと読み解くこともできます。なぜなら、聖書で金儲けしてインチキ教祖になるくらいなら、未信者として知らずに罪を犯す方がまだ救いようがあるからです。
そのような意味で、旧約聖書の律法と新約聖書の新しい契約における律法廃止の恵みは、古代イスラエル民とクリスチャンを自称する人々にとって悪事を正当化することで右手の躓きとなり、それこそが聖霊への冒涜になり得ることを示しています。その教えで身に滅びを招く、例えばよくあるあるなのが「新しい恵みの時代だ!何をしても赦される!パウロの言う通り!パーティタイムだ!」の不謹慎なノリでyoutubeに登場し意味不明な自分語りを始めて偽教師となったり自叙伝を高額販売してお金儲けする人もいます。
これらの人は毎回殊更に「律法は廃されたから何をしてもいい恵み」を引き合いに出す傾向は確かにあります。この人たちにとってパウロの手紙の恵みの一文のみが悪事の正当化の根拠になるくらいなのであれば、一旦その人たちは右手なるベニヤミン族のパウロ書簡等に出会わなかった、あるいは切り捨てた方が良かったと言えるでしょう。この恐れ知らずの聖霊を冒涜する人たちには旧約の神の怒りが黙示録の通り臨むことになるでしょう。
新約の恵みを必要とするパターン
しかし、パウロのように「神の教会を迫害した」と謙虚になる、あるいは妙に規則で雁字搦めになって罪意識が強まる傾向のある人たちにとって、このパウロの手紙の「律法廃止と信仰による恵み」は最も重視されるべきパーツでしょう。ルカ18:9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。 10「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。 11ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。 12わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』 13ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』 14言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
23:39 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」 40すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。 41我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」 42そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。 43するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
民数記21章4から9節にてモーセが青銅の蛇を掲げると、モーセに不平不満や罵倒をぶつけて殺意を抱く罪深い人ですら、それを仰ぎ見るだけで助かることになりました。それと同じく上記の十字架上の罪人一人も最初はイエスに「本当にメシアなら助けてくれ、それができないなら無駄死にだ」と罵倒していたかもしれませんが、後半になると悪あがきもせず静まりイエスの姿に感化され、幾らかの信仰で希望を託すセリフを残しました。何か善行を積んだから助かるわけではなかったのです。
律法によって救われないことを自覚する柔和で謙遜な人々にとってパウロの手紙は思考を一新するうえで欠かせない福音の音信になっています。また様々な背景のある人たちに寄り添う伝道スタイルが望ましいでしょう。
コリント第一9:19 わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。 20ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。 21また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。 22弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。 23福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。
イエスはユダヤ人から嫌悪されていた正統ユダヤ教を奉じない異教徒に近い概念を抱くサマリア人の離婚再婚、リアルタイムで交際を繰り返していた律法違反を平然とする女性と親しげに会話されました。(ヨハネ4:1-42) このことからも、我々は人によって柔軟に対応を変えて、時には掟に反することがあっても⇒相手の心身の福祉を優先することが求められています。
「行いではなく信仰で救われる」の意味は、人それぞれによって当てはまり方が異なります。ある人たちにとってパウロの書簡が邪悪さや悪事の正当化の理由になるのであれば、それを切り捨てるべきと言えますが、そうでない罪を容易に認める謙虚な人にとってパウロの手紙は重荷から解放されるための義の右手であり、救いをオオカミのように取り返し分かち合う強力な証になります。
申命記33:12 ベニヤミンのためにモーセは言った。主に愛される者はその傍らに安んじて住み終日、神に身を寄せてその肩の間の御守りのもとに住まう。
黙示録7:8 ベニヤミン族の中から一万二千人が刻印を押された。
申命記33章12節でのモーセのベニヤミン族に対する未来の預言的祝福は、 ベニヤミンが「YHWHの肩の間に住む」と記述されていますが、これはイスラエル王国の有力部族(エフライム)とユダ王国の有力部族(ユダ)の間に位置することにちなむものです。つまりベニヤミン族こそが、北と南を統一することが描写されています。ウィキペディアを引用
ベニヤミンに対するヤコブの預言は短過ぎますし、144000人の中に含まれることからいつまでも「かみさくオオカミ」の状態ではないことは明白です。かつては教会をかみさくオオカミとしてステファノの殉教をもたらしましたが、それ以降ユダヤ人より異邦人への使徒として救いの分捕り物を共有し多くの真のクリスチャンを生み出した功績はそれを示しています。ステファノの死は、パウロの後悔の思いとして残りましたが、実を結び、奪い取った命は死のバプテスマとなり、それを異邦人へ分け与えました。ヨハネ12:24 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。 25自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
ローマ6:3 それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。 4すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。 5もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。


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