教会で預言と異言がセットになっているケースは珍しくありませんが、まず現代異言に関して正しく認識することで間違った聖書的でない習慣を捨てることができます。
一世紀当時の異言は外国語
ペンテコステの日の異言
コルネリオの家における異言
異言とヨハネの弟子達
コリントにおける異言
天使の言葉としての異言
コリント第一13:1 たとえ、人々の異言、天使たちの異言(グロッサ)を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバルです。
コリント第二12:4 彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉(レーマ)を耳にしたのです。
- グロッサ:言葉の「仕組み(言語・システム・外国語としての器)」
- レーマ:その器から実際に発せられた「具体的な言葉・フレーズ(中身)」
一世紀当時の異言の聖書的な実体
コリント第一14:2 異言を話す人は,人に対してではなく,神に対して話すからです。だれも聴いていないのに,その人は霊によって神聖な奥義を話しているのです。3 しかし,預言する人は,その話す事柄によって人を築き上げ,励まし,慰めます。4 異言を話す人は自分を築き上げますが,預言する人は会衆を築き上げるのです。22 それゆえ,異言はしるしのためです。それも,信者に対してではなく,不信者に対してです
不信者に対して奇跡的に外国語で伝道された場合、彼らは奇跡によってキリストの音信に耳を傾けたでしょう。異言は奇跡的な外国語であり、一世紀当時に福音が広まるために外国語の習得における時間を短縮するために聖霊が奇跡を起こされたことがわかります。また聖霊のバプテスマを受けたキリストの弟子たちは、その場で学んだことがない外国語で神を賛美して、いわゆる異言を語っていたことでしょう。
例えるなら、日本語を全く知らない宣教師が日本で伝道する場合に、日本語で神を賛美したり伝道したりするということです。これを不信者がみるなら、奇跡的な働きを否定できないでしょう。そのように一世紀当時においては、異言によって伝道がスタートされました。
このように異言は神からの賜であり、神に語りかける媒体でもありなおかつ福音伝道の際にも外国語の異言は力を発揮していました。
異言の賜物は意味がわからないつまり翻訳できないなら語るべきでないし、一方で聖霊を通して話す場合は神の触発があり神と対話することが可能とする見解も2節ではみられます。それで、異言の解き明かし翻訳が可能な場合であるならその異言が外国語であり神からの奇跡の働きと証明されますから、そのような異言で神に語りかけるのであれば、コリントの聖句にあるように「霊が祈っている」と言えるでしょう。(14節)
ある聖書では「徳を高める」と訳されていますが、原語ギリシャ語であるオイコドウメオの用途は主に「築き上げる」であり、この箇所が「徳を築き上げる」と表現されべきかは疑問視されます。パウロは、自分を人々の前で築き上げるつまり高めるよりも、教会を築き上げるために説教を優先しなさいの意味で話していると読み取れます。
コリント第一8:10 あなたが、偶像への供え物を食べても別に害にはならないことを知っていて、偶像の神殿の中で食事をしたとします。しかしそれを、食べてはいけないと思っている人が見たら、どう思うでしょうか。その人は、偶像崇拝してもよいのだと変に良心が築き上げられながら勘違いして、自分もそれを食べてしまうかもしれません。
この聖句では、良心の弱い人が良心をオイコドウメオつまり築き上げてしまった結果、偶像崇拝に陥ってしまうケースがあることを述べています。オイコドウメオが悪い意味での築き上げるで使用されています。ですから、上述したように異言は自分を高めるとか築き上げるといった表現が必ずしもプラスにならず、マイナスの意味で使用されていると推測できるわけです。
まとめますと、人に語りかける場合の異言は、外国語であり翻訳されるべきです。翻訳できない異言なら人や教会の前で語るべきではないと聖書は断言しています。また翻訳可能な異言なら、当然ながら神に語りかけることも可能ですし祈りとして機能しますから、適正に賜物を用いて乱用しないようにということです。
一世紀当時のコリントの乱れ
現代異言の危険性
現代異言はただ発語すればいい、それだけで霊で神とつながるとかあるいは異言のおかげで超能力がついた、いわゆる人の心を透視したり幻をみたり色々とスピリチュアルに傾倒するケースも珍しくありません。
申命記第18 :9-13「あなたの神、主が賜る地にはいったならば、その国国の民の憎しむべき事を習いおこなってはならない。あなたがたのうちに、自分のむすこ、娘を火に焼いてささげる者があってはならない。めた占いをする者、卜者、易者、魔法使、呪文を唱える者、口寄せ、かんなぎ、死人に問うことをする者があってはならない。主はすべてこれらの事をする者を憎まれるからである。そしてこれらの憎むべき事のゆえにあなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるのである。あなたの神、主の前にあなたは全き者でなければならない」。
現代異言が神からの聖霊の奇跡的な賜物ではない場合、つまり自発的に編み出したオリジナルの異言であるなら、それは呪文や口寄せにならないでしょうか。私は異言で祈る人たちが死者の霊を見たり声を聞いたりしているのを確認しました。まさにこの聖句が述べる通り、入ってはならぬ領域に足を踏み入れている気がしてなりません。
穢れた欲深い思いを抱きがちなクリスチャンが異言を語ると堕天使が共鳴して口寄せとなると考えられます。良心的なクリスチャンが語る異言は明らかに外国語であり一世紀当時の福音伝道の開拓のために用いられた神からの奇跡の賜であるからです。その奇跡の賜物を的確に用いて神に語りかけるなら「霊において祈る」ことはできたのでしょう。
しかし、大抵の異言に関しては翻訳が不可能ですし、神に語りかけることはできません。人にも語りかけて伝道する媒体にもなりません。浅はかな欲深いクリスマスによって繰り返される単調な巻き舌の祈りはもはや口寄せであり悪魔が引き寄せられる原因となるでしょう。
現代異言が本当に奇跡的な外国語であるなら、人にも神にも語りかけることは可能になります。しかし翻訳できない現代異言は、一世紀当時のパウロや十二使徒が話していた本物の異言ではありません。むしろコリント化したその地域特有の流行っていた翻訳者が不在で解き明かし不可能な間違った異教の習慣と同等の、パウロが叱責して教会で語るなつまり人に語るべきでないと注意した間違った異言です。
結論としてはカリスマ派が推奨する単調巻き舌の異言で人に語りかけたり祈るのは、聖書的ではないと言えます。ぜひ、皆さんも異言に関して検討されてください。



異言は徳を高めると書いてあるので、ずっと良い意味かと思ってました。
返信削除原語ギリシャ語での意味は自分を高めるという意味なのですね。
聖書では高ぶるなとか書いてあるから、あまり良くないのですね。
なるほど!モゾモゾと謎の言葉を発すれば聖霊がとりなし祈って全てが神の御心通りになるってのは間違いだと気付かされました。
そうなると、ほとんどの人は本物の異言を語ってないですね。
異言の賜物はごく限られた人達に限られたタイミングでしか与えられないのですね。
どうでもいい話ですが、今の美容室の前の美容室がアフロディーテという名前でした。
アフロって髪型の一種を店名にしたとばかり思ってましたので、偶像の名前が至るところにつけられててビックリです。
異言は自己表現したり自分を高めるものですが、預言つまり説教は会衆自体を高めます。とある通り、パウロは異言自体に否定的なようです。翻訳できるなら異言で人の前に語ってもいいし、そして異言は基本的に神を外国語で賛美してそれを未信者がみて彼らが知らない外国語である自分たちの母語を語る有様をみて、驚嘆し神を信じるための、未信者へのしるしプラス神への語りかけでもあります
返信削除今の異言は単調な巻舌だったり、同じ発語の繰り返しだったり外国語異言というよりも口寄せや呪文の意味合いが強いと思います。伝道でも仕えないし翻訳できない異言なら、神に語りかけても空中に祈るようなものとパウロは言ってます。
都会は罪の温床で贅沢と虚栄と心霊術が蔓延している場所ですし、都会に神の裁きは下ります。どこをみても会社のロゴや店の看板などに異教の偶像の名前やアイデアが用いられてそれを反映してます。