1世紀の異言と違う現代のそれで人に向かって祈るのは聖書的か

2021/04/18

異言 偽キリスト教

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ある教派では異言で人の頭に手をおいて祈ります。しかしこれは実は聖書的ではありません。まず上画像のような一世紀クリスチャンたちが有していた異言とは、外国語でありそれは奇跡的な聖霊の働きであり、未信者へのしるしだからです。

教会で預言と異言がセットになっているケースは珍しくありませんが、まず現代異言に関して正しく認識することで間違った聖書的でない習慣を捨てることができます。 

一世紀当時の異言は外国語

新約聖書では4箇所に異言の明確な言及が登場する。以下の4箇所である。

ペンテコステの日の異言

使徒行伝2章11節-13節にはペンテコステの日の異言の記述がある。弟子達は「他国のことばで(ἑτέραις γλώσσαις)はなしだした」と記述されている[1] 。「ことばで」(γλώσσαις (glṓssais);γλῶσσα の複数与格)は普通、ことばを話す器官である舌と、話す言葉の両方を意味する。「他の」(希: ἑτέραις (hetérais);ἕτερος (héteros)の女性形複数与格)は弟子達が自国語ではない国語で話したことを示す。聖書の記述によると、ここで言及されている異言は外国語である。弟子達が、学んだことのない、自国語でない言語を、話したという現象である。 彼らはその話すことばを理解することができ、ことばの混乱を起こしたバベルの塔の物語とは逆に、聖霊は人々が言葉を越えて互いに理解し合えるようにされた。

コルネリオの家における異言

使徒行伝10章44節-47節には、ペテロが神の強い促しによって、コルネリオの家に集められた異邦人たちに福音メッセージを語った時に「~、みことばに耳を傾けていたすべての人に聖霊がお下りになった。」(44節)と記述されている。そして、彼らは「異言を」(γλώσσαις)話した。この異言は外国語であったかどうか明確には言われていない。しかし、「私たちが主イエス・キリストを信じたとき、神が私たちに下さったのと同じ賜物を彼らにもお授けになった。」(同11章17節)との記述から、この異言はペンテコステの異言と同じ性質のものであることが推測できる。

異言とヨハネの弟子達

使徒行伝19章1節-7節には、パウロがバプテスマのヨハネの弟子と会った記述が書いてある。パウロがキリストと聖霊について教えた後に、両手を彼らの上に置いた。すると彼らが異言を語ったという記述がある。「聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言(γλώσσαις)を語ったり、預言をしたりした。」(使徒行伝19章6節)この異言が外国語だったとは明確に言われていないが、ペンテコステとコルネリオの家の現象と同じ単語が使われていることから、同じ現象と思われる。

コリントにおける異言

コリント人への手紙第一12章1節-14章40節には、コリントの教会において人々が異言を語っていたといことが記述されている。パウロは異言が神の賜物であることを認めて、異言を禁じてはいないが、誤用については指摘している。この異言もペンテコステの異言と同じ γλῶσσα が用いられているので、ペンテコステの外国語を話す現象の可能性が高い。
異言を語るルールについてパウロは言及している。パウロは、異言を語るならば秩序を保ち二人、多くても三人で順番に語り、一人はその解き明かしをするようにし、また異言を解き明かす者がいなければ教会では異言をせず、個人的にすべきとしている。また、未信者や求道者をつまずかせるので、教会の全員が一箇所に集まって異言を語ってはならないとしている。また、聖書は異言より預言(聖書の言葉)を語ることを勧めている。参考:コリント人への手紙第一14章1−5節、27−28節、39節。 この教えは現在のルールでもある。

天使の言葉としての異言

「未知の異言」では、異言を霊的言語と捉え1コリント13章「天使たちの異言」から、「天使たちが使う言語」だと主張する方がいます。「天使たちの異言」「天使たちの言語」は天使が解き明かさなければ、理解する事が出来ない言語です。

コリント第一13:1 たとえ、人々の異言、天使たちの異言(グロッサ)を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバルです。

コリント第二12:4 彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉(レーマ)を耳にしたのです。

この箇所の「天使たちの異言を語ろうとも」は、「たとえ」から始まっていますので、これは字義通りに読めば最高の中の極限状態でありその事例が生じていることを示唆していません。まず前提として、「グロッサ」と「レーマ」は、どちらか一方が言葉であってもう一方が言葉ではない、という関係ではありません。

  • グロッサ:言葉の「仕組み(言語・システム・外国語としての器)」
  • レーマ:その器から実際に発せられた「具体的な言葉・フレーズ(中身)」

ですので、もし「天使のグロッサ(天使たちが使う言語のシステム)」が存在するなら、そこから発せられる具体的なメッセージは当然「天使のレーマ」になります。つまり、グロッサがあれば必然的にレーマも成立する関係にあり、誰でもが発語できるような言葉ではない意味合いと結論付けられます。

一世紀当時の異言の聖書的な実体

これだけ見れば顕著ですが、明らかに異言は外国語です。そしてパウロが有していた異言の賜物は外国語であり、現代キリスト教の聖霊派やカリスマ派が定義づける「誰も理解出来ない異言」ぺちゃくちゃただ発語すればいい、自分や他人がわからなくとも霊は実る、とかそういう類のものでもありません。

コリント第一14:2   異言を話す人は,人に対してではなく,神に対して話すからです。だれも聴いていないのに,その人は霊によって神聖な奥義を話しているのです。3  しかし,預言する人は,その話す事柄によって人を築き上げ,励まし,慰めます。4  異言を話す人は自分を築き上げますが,預言する人は会衆を築き上げるのです。22  それゆえ,異言はしるしのためです。それも,信者に対してではなく,不信者に対してです

不信者に対して奇跡的に外国語で伝道された場合、彼らは奇跡によってキリストの音信に耳を傾けたでしょう。異言は奇跡的な外国語であり、一世紀当時に福音が広まるために外国語の習得における時間を短縮するために聖霊が奇跡を起こされたことがわかります。また聖霊のバプテスマを受けたキリストの弟子たちは、その場で学んだことがない外国語で神を賛美して、いわゆる異言を語っていたことでしょう。

例えるなら、日本語を全く知らない宣教師が日本で伝道する場合に、日本語で神を賛美したり伝道したりするということです。これを不信者がみるなら、奇跡的な働きを否定できないでしょう。そのように一世紀当時においては、異言によって伝道がスタートされました。

このように異言は神からの賜であり、神に語りかける媒体でもありなおかつ福音伝道の際にも外国語の異言は力を発揮していました。

異言の賜物は意味がわからないつまり翻訳できないなら語るべきでないし、一方で聖霊を通して話す場合は神の触発があり神と対話することが可能とする見解も2節ではみられます。それで、異言の解き明かし翻訳が可能な場合であるならその異言が外国語であり神からの奇跡の働きと証明されますから、そのような異言で神に語りかけるのであれば、コリントの聖句にあるように「霊が祈っている」と言えるでしょう。(14節)

ある聖書では「徳を高める」と訳されていますが、原語ギリシャ語であるオイコドウメオの用途は主に「築き上げる」であり、この箇所が「徳を築き上げる」と表現されべきかは疑問視されます。パウロは、自分を人々の前で築き上げるつまり高めるよりも、教会を築き上げるために説教を優先しなさいの意味で話していると読み取れます。

コリント第一8:10 あなたが、偶像への供え物を食べても別に害にはならないことを知っていて、偶像の神殿の中で食事をしたとします。しかしそれを、食べてはいけないと思っている人が見たら、どう思うでしょうか。その人は、偶像崇拝してもよいのだと変に良心が築き上げられながら勘違いして、自分もそれを食べてしまうかもしれません。

この聖句では、良心の弱い人が良心をオイコドウメオつまり築き上げてしまった結果、偶像崇拝に陥ってしまうケースがあることを述べています。オイコドウメオが悪い意味での築き上げるで使用されています。ですから、上述したように異言は自分を高めるとか築き上げるといった表現が必ずしもプラスにならず、マイナスの意味で使用されていると推測できるわけです。

まとめますと、人に語りかける場合の異言は、外国語であり翻訳されるべきです。翻訳できない異言なら人や教会の前で語るべきではないと聖書は断言しています。また翻訳可能な異言なら、当然ながら神に語りかけることも可能ですし祈りとして機能しますから、適正に賜物を用いて乱用しないようにということです。

一世紀当時のコリントの乱れ

コリントの地方は一世紀当時においては、北のギリシャと南のペロポネソスを繋ぐ位置にありアジアと欧州の貿易における仲介地点として機能していました。そのためにコリントには外国人が行き交う市場が繁盛した賑やかな場所となり、それだけ風紀の乱れも顕著になっていました。

世界三大運河であるコリント運河は皇帝ネロの時代、西暦60年に建設開始されて19世紀半ばの完成に至るまで貿易地点として用いられてきました。このような土地で、女神アフロディーテという好色や贅沢と放蕩を象徴する偶像が祀られていました。やはり外国人が行き交う土地にて注目を得るため人間にとって都合の良い快楽主義が大きく歓迎されていました。

神殿には1000人の高級娼婦たちが働いていたと言われています。このような快楽主義とご都合主義とご利益信仰が蔓延した異教の土地コリントにて教会が設立されて、やがて教会内でも好色や異言の乱用といった問題も発生したわけです。

コリント化するとかコリントで教会が機能するならどこでも福音は歓迎される等の皮肉めいたことわざまであったほどでした。快楽主義でロマンスばかり追い求め放蕩的で贅沢で好色を好む霊的に未熟な人々は、恍惚状態になるために異言(コリント教会への手紙のみで注意喚起されているこの土地で流行っていた呪文寄りの異言)の乱用を試みていたことでしょう。そのためにパウロは「異言は霊が祈るが、知性を実らせることはない」(15節)と注意したと推測できます。

福音は人間の感情に訴えかけるものではありますが、理性的に捉えるべきです。パウロは理性的で理論的な人でしたし、恍惚状態になって人に異言で語りかけて翻訳できないこともありませんでした。

現代異言の危険性

現代異言はただ発語すればいい、それだけで霊で神とつながるとかあるいは異言のおかげで超能力がついた、いわゆる人の心を透視したり幻をみたり色々とスピリチュアルに傾倒するケースも珍しくありません。 

申命記第18 :9-13「あなたの神、主が賜る地にはいったならば、その国国の民の憎しむべき事を習いおこなってはならない。あなたがたのうちに、自分のむすこ、娘を火に焼いてささげる者があってはならない。めた占いをする者、卜者、易者、魔法使、呪文を唱える者、口寄せ、かんなぎ、死人に問うことをする者があってはならない。主はすべてこれらの事をする者を憎まれるからである。そしてこれらの憎むべき事のゆえにあなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるのである。あなたの神、主の前にあなたは全き者でなければならない」。

現代異言が神からの聖霊の奇跡的な賜物ではない場合、つまり自発的に編み出したオリジナルの異言であるなら、それは呪文や口寄せにならないでしょうか。私は異言で祈る人たちが死者の霊を見たり声を聞いたりしているのを確認しました。まさにこの聖句が述べる通り、入ってはならぬ領域に足を踏み入れている気がしてなりません。

穢れた欲深い思いを抱きがちなクリスチャンが異言を語ると堕天使が共鳴して口寄せとなると考えられます。良心的なクリスチャンが語る異言は明らかに外国語であり一世紀当時の福音伝道の開拓のために用いられた神からの奇跡の賜であるからです。その奇跡の賜物を的確に用いて神に語りかけるなら「霊において祈る」ことはできたのでしょう。

しかし、大抵の異言に関しては翻訳が不可能ですし、神に語りかけることはできません。人にも語りかけて伝道する媒体にもなりません。浅はかな欲深いクリスマスによって繰り返される単調な巻き舌の祈りはもはや口寄せであり悪魔が引き寄せられる原因となるでしょう。

現代異言が本当に奇跡的な外国語であるなら、人にも神にも語りかけることは可能になります。しかし翻訳できない現代異言は、一世紀当時のパウロや十二使徒が話していた本物の異言ではありません。むしろコリント化したその地域特有の流行っていた翻訳者が不在で解き明かし不可能な間違った異教の習慣と同等の、パウロが叱責して教会で語るなつまり人に語るべきでないと注意した間違った異言です。

結論としてはカリスマ派が推奨する単調巻き舌の異言で人に語りかけたり祈るのは、聖書的ではないと言えます。ぜひ、皆さんも異言に関して検討されてください。

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