打算的に計算高くても救済される?
この民数記21章4-9節では、マナを食べながらに少しの疲労でモーセに殺意を宿して急にモンスタークレーマーのように罵倒を浴びせる気性の激しい罪を宿したイスラエルの民が、それゆえに神に送り込まれた蛇に裁かれ、その中でも生き残った人が蛇の青銅を仰ぎ見るだけで許され死の罪を免れたとする状況が描かれています。この聖句箇所を引用し、終末の聖徒に歯向かって殺意を宿した人々がその場で降参降伏するだけで急に救済され千年統治で若返り子孫を繁栄させる先祖となるだろうと教えている反JW教派がネットに存在します。根拠は詩編2編だそうですが、全体としては地の王たちが神の油注がれた王(クリスチャン)たちに歯向かい集結し戦いを仕掛けようとする状況になる前に悔い改めなさいとの警告の描写となっています。が、何故か14日派を参考にされてるヨベルの角笛さん等は、ハルマゲドンの戦いは勃発せず終結し、歯向かってきた王たちが楽園に入りその攻撃性むき出しの悪人が若返り子孫をまた繫栄させる地獄絵図になるとブログで教えておられます。(ハルマゲドンは霊的な目に見えない戦いでもある故現在進行形。聖書の暗号ステファンさんを検索し参照)
14日派と自分たちで名乗るグループでして、とても造詣の深い考えを発信してくださるわけですが、今回書き上げる信条の倫理的問題点を要約したいと思います。詩編二編で終結した反逆の子らたちが急にキリストに命欲しさに敬意を払うだけで千年統治に若返って入ることができると14日派主義派やそこを参考にされているヨベルの角笛さんも考えているようです。
まず「エホバの証人のように統治体に打算的に敬意を払いさえすれば楽園に入って永遠に生きることができる」と考える状態では、本当の忠節に基づく愛の真価を測ることができないため、破綻していると述べられています。確かにそうなのですが、では14日派主義が述べるように終末の聖徒を待ちわびて奇跡やしるしを伴う油注がれた二人の証人が出現するや否や媚を売って同調すれば千年統治に入ることができると教える教理は、エホバの証人側の計算づくで統治体の恩を売るやり方と何も変わりがないと言えるのではないでしょうか。新約聖書の基準が全くもって自分たちに無関係かつ144000人のみがそれの道徳基準を死守することを求められていると考えて、過剰に重責を聖徒に押し付ける他責思考に至りがちではないかと個人的に考えています。
さらに終末の日はノアの時代のようと言われる通り、たまたま死去した人と生き延びた人が同列である「モーセの青銅の裁きの日」ではなく、イレギュラーであると表現されていることから、終末の聖徒にさえ敬意を払って日頃から傍若無人な振る舞いをする人が生存本能を働かせて寝返るだけで千年統治に入り子孫を増やす先祖になることは無いでしょう。それはかつてのイレナエウス(エイレナイオス)ですらそう認識していません。⇒当時イレナエウスは信者の義人のみが楽園に復活し子孫を増やしていくことになると信奉しているほどです。
またモーセの青銅において死去した人とそうでなくたまたま生き延びた人の道徳面での相違はさほどありませんから、⇒エノク書にある通り裁きで死去した人らはセカンドチャンスへの復活が与えられます。救済までの途中経過の通過点として死の眠りについているのみであり、生存中にキリストを知った人たちが心身の救いを得ることができる恵みの意味合いがモーセの青銅の裁きに込められているのであり、今生きながらに罪を犯す者らに対してはキリストを信じて改心するチャンスは与えられている現状とリンクしていますが、注意点もあります。
青銅の裁きの日と終末の雛型であるノアの時代の相違
しかし、タイムリミットは近年の世界情勢を見ても狭められており、モーセの青銅の裁きの日からノアの時代のような全世界中の人々の命運が関係する「終末」の時代へと変遷しつつあるわけで、14日派主義派の言うような聖徒のみが関係するわけでないことがわかると思います。14日派では、聖霊の働きは一切今も皆無であり、終末にのみそれが注がれ活性化するわけだから、その時にのみ聖霊の冒涜の罪が起こり得ると考えているようでヨベルの角笛さんもそれを参考にしているようです。
それで、14日派の推測するような終末のしるしを伴う特別な人への打算的で計算づくの媚売りが永遠の命へ至らせるとする教理は、エホバの証人が打算的に統治体にへいこらする恩着せがましい貪欲な行為を助長しかねない道義的な問題を同様に生み出しかねないものであり、さらに聖書の文脈と他の箇所を無視し嘲る者らの愚行を放任する可能性もあります。終末のノアの時代の日に差し掛かるにも関わらず、嘲りや中傷を継続しながら攻撃性むき出しで神の民を迫害する者らに「聖徒ではない故に聖書と無関係だから何をしても最後に寝返れば助かる」と吹聴し、「皆心に罪宿すから」と悪意を宿し実際に言動に移す者らと罪を自覚しそれを制するように励みキリストを蛇の青銅を仰ぎ見るように意識し、さらに新約の新たな契約によって改心し神の前でキリストの義の衣を身に着ける者らを同列に置くことはできないでしょう。それは自己卑下と言えるでしょう。
エゼキエル13:22 おまえたちの偽りは、わたしの意に反して、正しい人を落胆させた。それどころか、罪の生活を続ける者たちにいのちの約束をして、その悪者どもを力づけるようなことまでしたのだ。 23だが、もうそんなことは許されない。見たこともない幻を見たと言ったり、魔術をしたりすることもできなくなる。わたしがおまえたちを滅ぼして、わたしの民をおまえたちの手から救い出すからだ。こうしておまえたちも、わたしが主であることを知る。」
33:7 人の子よ、あなたにも言う。わたしはあなたをイスラエルの見張り役とした。だから、わたしの語ることに耳を傾け、わたしに代わって彼らに警告せよ。 8わたしが悪者に向かって、『悪者よ。おまえは必ず死ぬ』と言うとき、あなたがそれを伝えなければ、彼は悔い改めることをせず、その罪のために死んでいく。ただし、わたしはその死の責任をあなたに問う。
マタイ24:36 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。 37人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。 38洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。 39そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。 40そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。 41二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。 42だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。 43このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。 44だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
とりわけ今は全世界中の人々が関係するノアの時代の日に差し掛かりつつあるわけであり、モーセの青銅の裁きの日の恵みの猶予期間が狭められつつあると考えられます。14日派教理の最大の特徴は聖霊が全く皆無であるからこそ今の段階で全ての罪例えば嘲り愚弄中傷盗み不道徳は神に許されるとするものです。しかし、それは不義に浸りながら嘲る者らへの命の約束となりかねない偽預言の罪に加担する可能性もあると考えられます。また重責を144000人のみに押し付け聖書の道徳基準を度外視する精神性は、この世の悪や惨事に対する無関心さや人間に備わった公正さという特質の侮りの顕れでもあります。
アモス8:5 あなたがたは、安息日や新月の祭りが早く終わることをひたすら願っています。そうすれば、重くした量りと短くした物差しで、ごまかして儲けることができるから。
医師会のロゴマークについて
世界基準でも日本医師会でも蛇がぐるぐるととぐろを巻いているロゴマークが使用されており、旧約聖書の蛇の青銅をモチーフにして毒をもって毒を制する意味合いが込められていると言われています。しかし聖書では蛇の頭をキリストが砕く、つまり死に至らせるとかそもそも蛇とはサタン、その大蛇である龍の象徴する動物であり、蛇のゆえに全世界へ死と呪いが蔓延したが故にそれが手足を失い腹ばいになって地面を這うようになったとされるため、不吉を意味しうるものでもあります。(創世記3:14,15)ヨハネ3:14 モーセが荒野で、青銅で作った蛇をさおの先に掲げたように(民数21・9)、わたしも木の上に上げられなければなりません。 15わたしを信じる人がみな、永遠のいのちを持つためです。」
ところで、木に掲げられた青銅の蛇自体は「罪と呪いと死」を意味します。罪と呪いと死である蛇が、木に掲げられるわけですから、ガラテア3章13節に「木にかけられる者はだれでも、のろわれた者である」(申命21・23)とあるように、「罪への裁きと呪い」の無効化による赦しを意味するものです。
たまに勘違いされがちなのが、蛇の青銅をシンボルのように拝むのではなく、その死の裁きをもたらした炎の蛇が無生物としての青銅となって木に掲げられたことで、無効化されたつまり炎の蛇が呪われたことを意味します。そしてキリストは実際に呪いを引き受けて呪いそのものとなられて全人類の罪の贖い主となられたことを示唆するものです。
ところが、医師業界のロゴマークの意図するものは、蛇が木に磔にされ呪われたことを意味するより、おそらく蛇を生かして蔓延させることのサブリミナルと考えられます。偶像崇拝の根底の意味合いとしては、何かのフィギュアや銅像をただ作って保有するというより、それに対する捉え方に左右されるものだとこの聖句から読み取れます。西洋医学に対して絶対的信頼を寄せて盲従することは、蛇への崇拝行為となり得ます。



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