パウロが偽使徒であると書く偽クレメンス文書について

2023/02/05

天的クラス

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これはパウロがペテロの動向について問いただすシーンです。パウロを偽使徒とする流れはやがて日本でも大きく流行すると推測されます。彼らは一体何を根拠にそう主張するのでしょうか。clementine homilies日本語訳では偽クレメンス文書と呼ばれる書籍があります。こちらではパウロを偽使徒とするストーリーが大きく描かれています。

その根拠として、「イエスが生きている間に直に弟子となっておらず、幻視体験のみであること、悪い人でも幻を視るしイエスは荒野で出現しても騙されるなと言ってること、パウロは悪霊に悩まされていること、ユダヤ教律法に細かに従う必要があること」等が偽クレメンスの中で挙げられます。

まずキリストの再臨としての到来における偽の証言を妄信してはならないとする警告であって、昇天後、異邦人への伝道を拡大するために時々キリストが一世紀当時の使徒パウロや使徒ヨハネの前に出現し、信仰増強のショートカットをするのとは状況が違います。胡散臭い人が、「ジーザス見たよ♡俳優の○○に似てた」とか言ってるのTwitterで見かけますが、明らかにインチキと分かりますし、貪欲な人にインチキジーザスが出現する一方で、誠実な選びの器に啓示を与えてキリストが時々出現することがあり得ることくらい当時の使徒たちですら汲み取っていたことでしょう。「荒野でキリストがいたと言っても信じてはならない」の一文を一律にエホバ教のように当てはめるなら、使徒ヨハネがパトモス島なる荒野でキリストなるミカエルと対面しても「信じてはならぬ」となりますが、このような一文のみに固執する解釈がいかに柔軟性のない馬鹿げた解釈であることくらい誰でもわかることです。

偽クレメンス文書の流れ

しかし、上記の幻視体験矛盾と思わしき箇所含めてパウロを悩ました悪霊の正体なども原語からその都度書き足して解決しているので再度読まれてください。今は説明省きます。パウロの肉体の「中に」悪霊がいたとする訳し方はKJVでも採択されてますが、誤訳です。詳しくは144000人ラベル読み返してください。こちらに少し書くと、in fleshと訳された該当箇所のinはギリシャ語でhoであり、名詞を強調する冠詞でニュアンスは多岐に渡り大体「それ、それら、その」等を意味しています。

この偽クレメンスは三世紀ごろに完成された書簡で、徹底した禁欲グノーシス主義に影響されたエビオン派が創作したのかそれを支持していたと言われています。エビオン派の特徴は、エイレナイオスによると、彼らが創造主なる神だけを信じ、イエスの神性を否定した。さらには処女懐胎をも否定し、イエスはヨセフとマリアの子であり、律法遵守によってキリストになったと述べられるとウィキペディアであります。

そして、偽クレメンスの中ではパウロが改宗前に「イスラエルの子らよ、キリストのバプテスマを受ける奴らは惨めなシモン・マグスに騙された人たちだ!倒すんだ!」と民衆を煽って迫害を先導し、使徒ヤコブに彼自身が激昂し神殿の階段から真っ逆さまに突き落として彼の足を骨折させたとあります。確かに改宗前に殺すつもりでキリスト者を迫害したと使徒行伝で書いてありますが、ヤコブとの確執話があったかは書いてません。こちらで偽クレメンスの要約確認できます(ctrl+fキーで検索タブを表示させ、そこに"saul"と入力し英語で読んでみてください。)


またユダ・イスカリオテに代わりに十二弟子に選定されたマッテヤとパウロに同伴していたバルナバが同一人物である設定になっています。しかし一般的な伝承によると、マッテヤはカスピ海地方で殉教し、バルナバはキプロスで石打ちにあって殉教したと言われており、相違は明確になっています。使徒行伝においてバルナバとマッテヤが同一人物とする描写はワテの調査不足の可能性もありますが見当たりませんし、偽クレメンスはシモン・マグスなる魔術師をパウロに投影し重ね合わせて描いていることから、パウロの書簡のみを支持しながら間違った解釈をするマルキオン派に対抗するべくユダヤ主義を強く支持したいエビオン派たちグノーシス主義同士での派閥の中で生み出された創作話と考えられます。なので、話の中でパウロことサウロが改宗前に「シモン・マグスのような惨めな男に騙されたクリスチャンを倒せ」と迫害を先導するシーンがありますが、結局その後シモン・マグスが無法者で律法を廃止した魔物でパウロとシモン・マグスを表裏一体のように重ね合わせ投影し話を展開していることから、人物相関図が入り乱れているので、ヤコブとの確執話も含めて創作話なのでしょう。※実際にはパウロは基本的な道徳基準等を廃止していない。

また、ペテロは異邦人の中でも割礼をしてない罪人のみと接触を控えていただけとか菜食主義者との設定になっていますが、ペテロも使徒行伝では異邦人と交流するよう主から幻で命じられますし、しかもイエスは生前に収税人や罪人と共に食事をしたり、招かれる場合には何でも食べていたわけですから、偽クレメンス文書が述べるようにユダヤ教の隠遁生活を継続していたわけでないことが容易に想像できます。使徒行伝を抜きにしてもパウロではなくペテロが異邦人へ伝道する場合、宣教先の家々がユダヤ人一家ではない際、何でも出された物は食べる必要があります。

さらにペテロはクレメンスとの会話の中で、霊魂不滅説を支持しています。神がそれを悟らせないように小難しく聖書を作成したとか、偽預言を聖書に含ませて敢えて試しているのだとか言ってます。でも実際に偽りの預言者がリアル生活の中で紛れ込んで毒麦としてサタンの勢力が活性化することは大いにありますが、それを霊性な洞察力と聖書に精通することで見破ることはある程度可能になります。何も聖書に偽りが紛れ込むことで試すというわけではありませんので、偽クレメンスのペテロは何か物事を勘繰ったり独自思想を吹き込む人物のように描かれています。

全体的に対話形式で物語が進んでいく有様でして、他の正典書簡とは雰囲気が全く異なっている異質なものとなっています。既存の聖書に対して真新しく新鮮に感じてしまい、これこそ新たな啓示と錯覚しがちですが、聖書の基礎教理と大きく逸脱しながら対話形式物語であること、パウロ書簡のみを支持しながらそれらすら改竄し独自教理を作り上げたいマルキオン派に対抗するべくエビオン派が生み出した可能性等も考慮するなら、偽クレメンスの中にかなり偽りが含まれていることも推測できます。

パウロとペテロの関係性

またパウロはこのガラテアの手紙でユダヤ教に浸食される流れを心配しやはりペテロの失態についても彼らの面前で説明する必要があったと思われます。偽クレメンスはこれらを十二使徒への嫉妬心から書いたと言いますが、ローマ7章24節からはパウロは「罪に支配される惨めな人間だ」と極端に自己卑下すらしています。このパウロが悩む罪とは何かと後代に渡っても色々噂されていますが、何かやましい後ろめたいことでもあるのかと思わせるような誤解を生む話し方を公にする性格からして、情熱的に自分も含めて他人へはっきりと物申すタイプと考えられます。罪と言ってもおそらく不完全な思いから生じる人間なら誰しもが抱く悲しみ怒り短気、誇りの多少の情緒不安定の類であったと思われますし、文脈としては正しくあろうとすればその自己義を押し付けてしまう罪へと変質する可能性を述べているようにも読み取れます。

実際にパウロはコリント第二12章6節において、「誇ってはならないけど今だけそうさせてほしい」旨の前置きをして自ら卑しめられる立場になっていますので、人間なら誰しもが100%抱きがちな肉的な思いのことを「罪」と表現していると推測できます。パウロはキリストの贖いの啓示において興奮状態で常に情熱的に各教会へ手紙を書いているように見受けられます。人によっては長文の興奮気味な手紙のトーンを苦手と感じるようです。

また聖書自体がそもそも殺人姦淫を犯したダビデの後悔や悔い改め、エレミヤ、ハバククの悪徳支配者や民たちへの不満、憎悪等の感情を記録にまとめています。このことからも人間が現段階で抱える負の感情すら時に許容されることも大いにあることを示していると思われます。キリスト者は敵を愛し祝福せよとすら命令されますが、それを完璧にこなせなくともかまいません。

それで、言葉遣いその他諸々の律法や神やイエスが求めて規定する完全な「義」を現段階で確立してないとダメと思い悩む必要はありません。これこそパウロが悩まされた律法により示された惨めさと言えるのでしょうが、聖書は人間の負の感情を受け入れる包容力を示していると思います。時にそれが誇りや不満、憎しみであっても不当な理由づけで限度を超えておらず正当な言い分があるなら、理解を示されます。

ガラテア2章では、割礼派の勢力に押されて動揺するガラテアのクリスチャンたちに使徒ペテロという大物であっても彼らと平等な関係性であることを強調するために6節にて「彼らが優れていると人々から考えられても私に何の問題もありません」と前置きして自分の使徒としての権威を強く主張するまで追い詰められ焦りが文面ににじみ出ています。3章でも「あなたはどんな惑わしにかかったのか」と嘆いていることからも主だった使徒ペテロの一時的な動向がガラテア人たちに大きな動揺を生じさせてしまっていることがわかりますし、何とかそれを打破するために語気を強めてペテロの件を公に説明する必要性に迫られたのでしょう。

それで、話を変えますがペテロ第二3章15節ではペテロはパウロを「愛する兄弟」と呼んでいます。偽クレメンス文書が言うような対立関係がある「私の敵」ではないわけです。しかし偽クレメンス文書では聖書の中にわざと偽りが入り込むことで神が我々を試しているとペテロが主張する場面があります。この行き過ぎた疑心暗鬼にさせる言い分は意外と海外でも人気を獲得しており、それが日本でもやがて流行ると思います。

確かにパウロ書簡だけを強調する人は多く、彼らは理解力がないために曲解し滅んでいくと思われますが、これがたとえ旧約の律法であってもそれなりの弊害は生じています。それで読み手側のセンスが問われています。そのために、聖書は「多くが教師になってはいけない」とヤコブ3章で述べています。

エホバの証人とネットの反パウロ派

十二弟子とパウロなる13弟子に対抗するべく偶然なのかイルミナティ13階級血族の一人ラッセルはエホバの証人の起源となる聖書研究会を発足し、その後ラザフォードが引き継ぎものみの塔を生み出し反パウロ主義団体JWを作りました。パウロは宗教的な規定の死守における行いによる自己義ではなく、キリストの中にある義を求める忠誠な信仰義認を説きました。一方でエビオン派に類似するエホバの証人は、贖いの恵みを否定して相変わらずイエスではなく独自の神エホバを強調し反パウロ主義っぽくなっています。(個人的にラッセルには恨みもないし、おそらく彼よりラザフォードの方がやばいと思われる。ラッセルはまだ色々過ちは犯したかもしれないが、皆人生の中で完璧に生きる人はいないので彼を責めるつもりはない。)

もし、パウロが偽使徒であり割礼含めたユダヤ教の律法の全てを死守しなければ神から救われないと説く人がいるなら、それはその人の信条であり他人がとやかく言う必要はないと思います。しかし、彼らがそれを押し付けて聖書から論じてくる場合、多角的に外典に対して外典を引用し、聖書全体からも回答する必要に迫られます。13が支配層側が好む数秘だとか固執しすぎると真実を汚すために仕掛けられた敵の罠にハマって正常な判断を失うと思います。といっても、別にどうしてもパウロなる13番めの使徒が偽使徒だと言い張るなら、別にそれは自由と思いますし、こちらとしては攻撃的に交戦したいとか地獄に堕ちろとかそうなるとは思っていません。

聖なる十二弟子の福音(gospel of holy twelve)

こんな興味をそそるタイトルの書簡があるようですが、結論から言うとこれまた奇妙な教えが書いてあります。しかし、中には口伝えによって語り継がれてきたイエスの生き様が含まれているように見受けられます。例えばヨハネ8章の姦淫の女性に対するイエスの扱いは、シナイ写本には見られませんが、口伝えにより語り継がれたイエスの一面が加筆された場合それは嘘にはならないでしょう。

聖なる十二弟子の福音の中では、例えば、動物の犠牲制度もイエスにより廃されそれらも大切に取り扱われるべきであること、なるべく菜食主義を心がけること、その他もろもろの人間も動物も皆神から大切にされるべきと説く博愛主義的な思想が含まれます。ですが、この書簡には罪人が悪を悔い改めない場合は輪廻転生して永遠に地球に生まれ変わって魂の浄化を経験する等の異教的な教えが書かれています。旧約聖書が提示する教えは、人は死ぬと死の眠りに就くこと、また義人や諸々の斟酌ある罪人たちはそれぞれ前者は祝福の復活、後者はセカンドチャンスの復活、極悪人たちは裁きへの復活です。エノク書、外典第二エズラですら、基本的に死ぬと「眠る」と書いてあります。

それで、この書簡を支持したい場合でも読者側が洞察力を働かせ「輪廻転生」の箇所がグノーシス主義派によって加筆されていることを見抜き、その他のイエスの生き様や発言等が聖書と相反しない場合、口伝えによって語り継がれた事実として受け入れることもできる可能性を考慮する等の臨機応変な包容力が求められます。

残念ながら福音書マタイ伝にすら加筆がある事実からしても、十二弟子の教えが書き留められた書簡が無茶苦茶に改ざんされて正典から外されるようになった可能性もあります。ですから、それぞれがご自身で読んでどこまでが聖書正典と整合性が取れるか知的センスで読み取って、祈りのうちに理解の進展を忍耐強く求めていく必要があります。

まとめ(初代教父エイレナイオス)

結構外典というのは多くありまして調べるのも大変です。世の中情報過多で色々な憶測が飛び交い、真相論すらサタンの道具となっている事実を考えても、13という数字を敢えて悪魔崇拝者が利用することでイメージダウンを狙い、13番目の使徒となったパウロへの猜疑心を引き出して、いかにも真実かのように思わせる内容の偽クレメンス文書で誤誘導している悪魔の罠を見抜くセンスも必要です。

センスがないと多角的に調査できず一文のみで決めつけたりします。これは聖書全体の各書簡の文脈背景筆者の意図等を全く無視して一律化して当てはめようとする思考回路が停止したマイコンエホバの証人によく見られる特徴です。思考回路が停止するとパウロは律法を廃したからパーティタイムだとか逆に律法廃止したから反キリストだとか言って極端な主張をして迷惑な教祖になります。

使徒ヨハネの直弟子初代教父エイレナイオスはマルキオン派への異端反駁の中で「パウロは旧約と新約の預言がキリストによって成就したことを説いている」と述べています。十二使徒の直弟子がパウロを擁護しているので、偽使徒とか仲違いが生じていたと結論づけることは無理があります。三位一体、霊魂不滅等の背教要素が入り込んだものの基礎的なキリスト教の根幹は、約二千年前から失われることはありません。

確かに現段階で十二弟子の書簡が少ないと言えるかもしれませんし、今後それらが続々明らかになることを期待しますが、それ以上に千年統治が先に到来しその時に明らかになる可能性が高いと言えます。これから人々は情報過多の中にあり疑い互いに躓き倒れていくでしょう。ワテは引き続きマイペースに信頼できる方々と思いと信仰を共有したいと思っています。こちらも参考にできます。

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