翻訳の問題と献身の誓い
も塔オンラインライブラリーでは、それらが列挙されています。それで、創世記15章2節をグーグル翻訳にかけてみましたが、「主エホバ」と表記されるだけで決して主権者なる主と呼称されることはありません。אֲדֹנָי יֱהוִהはヘブライ語なので右から左へアドナイ・ヤフワであって、アドナイは「主人」という意味であり、それを殊更に「主権者」と表記する必要はありませんし、ましてやものみの塔のようにヤフワのテトラグラマトンに「主」をさらにつけ足して二重の意味合いで「主権者なる主」と表現するのは、意図的な捏造誤訳と言えます。ものみの塔の意図は、おそらく「主権」を強調することで組織の権威を平信徒へ振りかざし内部統制による政治的結束力を強化することにあります。ですから、本来の原文に確認されない「主権者なる主」という二重の権威を強調してるのでしょう。しかし、全ての箇所においてそれは「主ヤフワ」であって、「主権者」ではありません。
エホバの証人が述べる「献身」は異教の神へのそれとしてヘブライ語で多く使用されます。エホバの証人は、意図的に人々が組織の面前で組織に献身することを誓わせる状況下をバプテスマ前に作り出し演出しますが、後々組織に馴染めない信者を断罪する根拠を洗脳された平信徒はそこに見出します。
ですから、この聖書にない誓いと献身を伴ったエホバの証人流のバプテスマは心身への負担でしかなく、霊的な魔術となり得るゆえに受けるべきではありません。マタイ5章34節にてイエスは「誓ってはならない」と述べています。なので、「あなたはエホバの組織へ献身しますか」「はい」とか公衆の面前で応答させるエホバの証人の演出は有害で人々を宗教的な義へ献身させる的外れな騙しと言えます。
マタイ5:34 しかし、わたしは言いましょう。どんな誓いも立ててはいけません。たとえ『天にかけて』と言っても、神に誓うのと同じです。天は神の王座だからです。 35『地にかけて』と言ってもいけません。地は神の足台だからです。また『エルサレムにかけて』と言って誓ってもいけません。エルサレムは偉大な王である神の都だからです。 36『私の頭にかけて』と言って誓ってもいけません。あなたがたは髪の毛一本さえ白くも黒くもできないからです。 37だから、『はい、そうします』か、『いいえ、そうしません』とだけ言いなさい。それで十分です。誓いを立てることで約束を信じてもらおうとするのは、悪いことです。
しかも百歩譲って誓いの献身を正当化するとしても、隣人愛とか思いやりある生き方への回心を伴った「献身の誓い」なら美化されるかもしれません。ですから、人が「思いやりある親切な人」として生涯生きる決意をして誓い献身するなら立派なことですが、それは「思いやり」を包含するために人の過ちに関しても柔軟さを示しあうこともできますんで、エホバの証人のような堅苦しさを感じさせないでしょう。
イエスは献身ではなくメシアの表明としてバプテスマを受けましたし、エホバ教のように「献身」と定義しても、マタイ11章28節にてイエスは「私のくびきは軽い」と言うほどですし、あらゆる箇所にて「憐れみ深さや思いやり親切さ」が最重要視されてることからも、その生き方への献身と読み解くなら、エホバの証人の宗教ルールを死守するための献身とも全く異なることは明白です。
イエスは献身ではなくメシアの表明としてバプテスマを受けましたし、エホバ教のように「献身」と定義しても、マタイ11章28節にてイエスは「私のくびきは軽い」と言うほどですし、あらゆる箇所にて「憐れみ深さや思いやり親切さ」が最重要視されてることからも、その生き方への献身と読み解くなら、エホバの証人の宗教ルールを死守するための献身とも全く異なることは明白です。
メディアがついにエホバの証人を取り扱う
やっと近年エホバの証人がメディアで大々的に取り上げられることになりうれしい限りです。ワテはエホバの証人の排斥、忌避問題は深刻と思います。組織は信者を人質にして有無を言わせず盲従を暗黙の了解のもと強制しています。ですからそこそこ深刻な問題です。でも二世の女性陣は特に承認欲求が強いケースも多いので、顔出しして手料理ツイートしながらクリスマスとかひな祭りが祝えなかったとか幼稚な不謹慎な態度で不満を言います。問題は、祝日冠婚葬祭を祝えなかったことではなく、人質組織と言われるカルトの有様、忌避や排斥の習慣にあります。しかし極端に誰彼構わず現役エホバの証人なら攻撃してもいいと考えるのも冷静さを欠いた考え方でしょう。
このメディアでものみの塔が取り上げられ批判されることは、エホバの証人の人々からすれば迫害であり終わりの日が近い証拠に思えるでしょうが、それは支配層が作り上げたシナリオの偽旗作戦でしょう。宗教の破壊とかエホバ教への批判も支配層の計画通りでJW信者はそれに振り回されるのでしょう。本物の迫害というのは、ものみの塔やキリスト教世界の巨大既得権益からの攻撃です。JW組織から不当に排除されたり教会の左翼主義者に迫害され悪口を言われたりするのが、本当の宗教権威者たちからの迫害です。それで、現役エホバの証人の皆さんは組織の動向を冷静に見極める必要がありますし、組織以外の本物のクリスチャンを呪うことで聖霊の冒涜を犯しかねないと思います。
キリスト教はエホバの証人と五十歩百歩
キリスト教世界もエホバの証人も大差ありません。どちらかというと、キリスト教の方が人を裁かないし赦す方が多いです。私もキリスト教の牧師たちが優しくて驚いたのを覚えています。まず当時思いを打ち明け相談すると、「許し」を強調して決してこちらを咎めませんでした。この点において、明らかにエホバの証人より居心地がいいのを感じます。しかし、良い牧師が所属する教会は多くはありません。大抵は、聖書の啓示の解き明かしができずジーザスがなんちゃらかんたら基礎的なことばかり延々話してるところが多いので、エホバの証人と大差ないか下手したら劣ると思います。しかも、この人たちは三位一体や既存教理に固執しているので訳も分からずエホバの証人を批判したがります。例えるなら遊びで草野球している人がプロ野球を批判するようなものです。
さらに近年のエホバ教の異様さを暴露するメディアに便乗し、ますます自らの正統性を豪語できると勘違いした福音派プロテスタントがやけにエホバの証人を批判していますが、エホバの証人二世をそんな安っぽい上っ面の正義感で救えるわけありません。にも拘わらず、救済できる側にいると勘違いした知能も知識もエホバの証人よりも低い高慢な彼らがJWを批評するのは、悪魔のもたらす分断工作の罠と言えるでしょう。
結論まとめ
エホバの証人発行の新世界訳聖書における「主権者なる主エホバ」と訳される箇所は、組織の権威を振りかざし内部統制と結束力を高める意図的な捏造誤訳であり、閉鎖的なカルト性を正当化する根拠になり得ます。また献身と称した組織への発声を伴った応答による誓いのバプテスマも聖書的な事例と大きく異なります。人は洗礼後も間違いや罪を犯す可能性はありますし、エホバの証人は過ちを犯す弱さを認め人を赦す必要があると思います。自分たちの献身の誓いを果たすために憐れみを無視することができる思考回路になるように、ものみの塔は意図的な聖書の誤訳や献身という宗教的概念を使用します。
一方でエホバの証人をメディア露出に便乗して批判するプロテスタントもJWより深刻な諸事情、思考力の無い人が牧師や教師になっている問題を抱えていたりします。それで、この手の宗教問題は神学論で解決できるものではなく、司法制度に則った解決策が求められます。


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