イザヤ14章で霊魂不滅?
同じ章の4節で,この記述は「箴言」〔欽〕(ヘブライ語,マシャル,“ことわざ”の意。ラテン・ウルガタ訳,パラボラ,“例え”の意)として紹介されています。この詩的な言葉遣いは,無生のものが語っているかのような描写をしています。8節はその良い例です。「いとすぎおよびレバノンの香柏でさえもあなたのゆえに喜んで言う,『あなたはすでに倒れたので,もはや,きこりが上ってきて,われわれを攻めることはない』」― 士師 9:8-15と比べてください。
もちろん,神のみ言葉は,文字通りのいとすぎや香柏が喜んで,互いに会話を交わすということを示唆しているのではありません。同じように,死者の魂が地獄で意識を持っており,王座に就いているという意味に理解すべきでもありません。この記述は,世界強国としてのバビロン王朝が倒れることに関する詩的な予言にすぎないのです。
欽定約聖書がヘブライ語シェオールを,9節のところでは「地獄」と訳し,11節では「墓」と訳していることに気付かれましたか。シャフとランゲによって編さんされた聖書注釈書はこう述べています。
「この語は主に,旧約聖書中の詩的言語として用いられている。……シェオールはすべての墓の集合体として現われる。少なくともエゼキエル 31章と32章については,この点をあえて否定できる人がいるだろうか。そこは,どんな高い地位を極めた人であれ地上のすべての生命が最終的に行き着く,人類共通の墓である」。
前述の例えに似ているのはルカ 16章19節から31節に見られる例えです。ここでイエスは,「ある富んだ人」がハデス(シェオールに相当するギリシャ語)で火の責め苦に遭っているのに対して,「ラザロという名のあるこじき」は『アブラハムのふところ』で祝福を受ける様を描写しています。しかしここでも,魂が肉体の死後も苦しみに遭うことは述べられていません。この記述もやはり例えで,文脈によれば,富んだ人は当時のユダヤ教の宗教指導者を表わしており,ラザロはイエス・キリストを受け入れた一般の人々を指していました。イエスの死後,これら二つの級の人々は,イエスの象徴的な言葉に対応する経験をしました。*
「消すことのできない火」
しかし,「火の燃えるゲヘナ」に言及したイエスは,何を意味していたのでしょうか。(マタイ 5:22,欽定訳では「地獄の火」と訳出されている)ゲヘナに関するイエスの教えの一例は,マルコ 9章43節から48節に見られます。
「そして,もしあなたの手があなたをつまずかせることがあるなら,それを切り捨てなさい。あなたにとっては,不具の身で命に入るほうが,二つの手をつけてゲヘナに,すなわち消すことのできない火の中に行くよりはよいのです。また,もしあなたの足があなたをつまずかせるなら,それを切り捨てなさい。あなたにとっては,足なえの身で命に入るほうが,二つの足をつけてゲヘナに投げ込まれるよりはよいのです。また,もしあなたの目があなたをつまずかせるなら,それを投げ捨てなさい。あなたにとっては,片目で神の王国に入るほうが,二つの目をつけてゲヘナに投げ込まれるよりはよいのです。そこでは,うじは死なず,火は消されないのです」。
イエスはここで,死後の火の燃える責め苦の状態に関する,一般的なユダヤ教の見解を是認していたのでしょうか。実際のところ,死者の状態に関して,当時ユダヤ人の間には確立された見解はありませんでした。ユダヤ教の学者クラウデ・モンテフィオーレとハーバート・ローの編さんした「ラビ文学選集」は次のように述べています。
「そしてまた,別の混乱がある。一つの教理によれば,人は死ぬと,最後の裁きのために全人類が再び『よみがえらされる』まで,眠っている。ところが別の教理によれば,人は死ぬと,義にかなっているか,悔い改めているかのいずれかであるなら(そして特にイスラエル人であるなら),幸福と祝福のうちに,来たるべき祝福された世界での命をすぐに享受できるかもしれない。また,人が邪悪で,偶像礼拝者で,イスラエルの敵であるなら,死んだときにそのまま地獄に落ちるかもしれない。……あるいはまた,地獄での期間の終わりに滅ぼされるかもしれない。あるいは,地上での死に際して滅ぼされるかもしれない。こうした数々の奇怪な概念や混乱すべてを示唆ないしは言い表わしている文脈は数え切れないほどあるが,一般に受け入れられている学説や概念は一つもない」。
死者の状態に関するユダヤ教の見解には,復活までの「眠り」,および『滅び』の可能性という考えが含まれていることにお気付きですか。イエスは,ゲヘナについて語られた際,滅びについて考えていたものと思われます。というのは,後日,イエスは弟子たちにこう勧めたからです。「体を殺しても魂を殺すことのできない者たちを恐れてはなりません。むしろ,魂も体もともにゲヘナで滅ぼすことのできるかたを恐れなさい」― マタイ 10:28。
しかし,もしそうであれば,イエスはなぜゲヘナと「火」を結び付けたのでしょうか。「新聖書注釈書」(1965年版)には幾らかの背景となる資料が載せられています。「ゲヘナという語は,エルサレムにあるヒンノムの谷の名前がギリシャ語化したものである。そこでは,同市のごみを焼却するために,常に火が燃やされていた。これは,最終的な滅びの強力な描画であった」。ですから,聖書がゲヘナに言及している部分は,地獄の火の中で永久に責め苦を味わうという教理の根拠にはなりません。
「全くプラトン的立場」
もし聖書が死後肉体を離れる不滅の魂に一度も言及していないのであれば,そのような概念はどこから始まったのでしょうか。神学者たちは,その概念をギリシャの哲学者プラトンの思想から借用しました。一方プラトンは,それを古代バビロンに端を発する異教の神秘的宗教から取り入れました。プラトンはこう書いています。「我々は死などというものがあると信じているのだろうか。……それは魂と肉体の分離なのではないか。死ぬということは,その分離が完成することである。魂が独自に存在していて,肉体から解き放されており,肉体が魂から解き放されているなら,それは死以外の何であろう」。(「ファイドン」,64節)哲学百科事典(1967年版)は次のように述べています。
「独立して存在しかつ肉体から分離していることが示唆しうるという意味において,精神あるいは魂は実体であると主張する人は皆,プラトン哲学を奉じていることになる。またこの想像上の実体である精神あるいは魂を現実の,または真実の存在とする人は皆プラトン的見解を全面的に採用していることになる」。
ギリシャ哲学がキリスト教世界にどれほどの影響を与えたかについて,ダグラス・T・ホルデン教授は,自著「死に所領はない」の中で次のように述べています。
「キリスト教神学は,ギリシャ哲学とあまりにも混ざり合ったため,九割までギリシャ思想を持ち,ほんの一割だけのクリスチャン思想を持つ人々を育て上げた」。
聖書によれば,人間の魂とは,その人自身のことです。ですから,人が死ぬとき,魂も死にます。(エゼキエル 18:4,20)復活によって生き返らされるまでの期間,死者は無意識で,喜びも苦しみも味わうことがありません。(伝道 9:5,10。詩 146:4。使徒 24:15)一般に広く信じられている霊魂不滅の教理は,神のみ言葉からではなく,ギリシャ哲学から来たものです。こうした事柄を考えれば,あなたも霊魂不滅についてもう一度考えてみるべきではありませんか。
[脚注]
「今ある命がすべてですか」という本の「富んだ人とハデス」と題する12章(98ページ)をご覧ください。こちらを引用


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