一般教会では黙示録20章5節の「残りの死者は千年が終わるまで生き返らなかった」の記述を文字通りそのまま受け取り解釈しています。しかし、この記述は最古のギリシャ語写本にはありません。千年後に復活すると定義しても理に適った解釈にもなりますが、時系列的な進行ではなく、救いの完成を別角度から描写した共時的描写として解釈できます。
死者の復活と新エルサレム降下のタイミング
啓示
20章11節から13節には,復活のことが次のように説明されています。「またわたしは,大きな白い座とそれに座しておられるかた(ヤフワ)とを見た。そのかたの前から地と天が逃げ去り,それらのための場所は見いだされなかった。そしてわたしは,死んだ者たちが,大なる者も小なる者も,その座の前に立っているのを見た。そして,数々の巻き物が開かれた。しかし,別の巻き物が開かれた。それは命の巻き物である。そして,死んだ者たちはそれらの巻き物に書かれている事がらにより,その行ないにしたがって裁かれた。そして,海はその中の死者を出し,死とハデスもその中の死者を出し,彼らはそれぞれ自分の行ないにしたがって裁かれた」。
そして啓示
21章1節には次のように記されています。「わたしは,新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地はすでに過ぎ去って(いた)」。
文脈はこのように,死人の全般的な復活は,「以前の天と以前の地」が過ぎ去った後にあることを示しています。では以前の天と地はいつ過ぎ去るでしょうか。ペテロの第二の手紙
3章10節によりますと,それらは「主の日」に過ぎ去ります。3節から6節までのことばによると,その日は,ノアの日の洪水のように,嘲笑者たちを不意に襲います。したがって,キリストの千年統治に先行します。全ての死者はヤフワの白い王座の前に出ますが、裁きは子なる子羊イエスに委ねられます。(ヨハネ5:22)
啓示
20章11節から13節は,死人の全般的復活を『天と地が過ぎ去る』ことと結びつけていますから,その復活は,サタンが底知れぬ深みに入れられている千年間に起こるに違いありません。啓示
20章5節に見られる,千年統治後に死人が『生き返る』という一般的な解釈は,⇨神の視点からの霊的な状態を示唆しています。
天またイエスは「安息日の主」と称され、「7行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。 8病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」とご自分の弟子たちに指示しましたし、ラザロを復活させました。(マタイ10:7, 12:7, ヨハネ11:23−15)このイエスが地上にいた際の死者の復活の出来事は、千年統治なる安息日の予表としての前触れです。ヤフワ神の安息日でありイエスはその期間に千年統治の主となり、王国の子たちと共にラザロのような生前に誠実に生きた人もイエスの十字架の横で死刑を被った斟酌ありの罪人たちも含めて復活させます。(ルカ23:43)
イザヤ65:17 私は新しい天と新しい地を創造している。 以前の事柄は思い出されることも, 心に浮かぶこともない。 18 私が創造しているものについて歓喜し,永遠に喜びなさい。 私はエルサレムを喜びのもととして, 住民を歓喜のもととして創造しているのである。 19 私はエルサレムについて喜び,私の民について歓喜する。 その都市の中で泣き声や苦悩の叫びが聞かれることはなくなる」。20「そこには,数日しか生きない乳児も, 寿命を全うしない老人もいなくなる。 百歳で死ぬ者は若者とされ 百歳に達しない者は呪われた者とされる。 のである。 21 人々は家を建てて住み, ブドウ園を造って実を食べる。 22 建てた家に他人が住むことはなく, 植えた物を他人が食べることもない。 私の民の寿命は木の寿命のようになり, 私が選んだ者たちは働く喜びを存分に味わう。 23 彼らは無駄に労苦することはなく, 生まれる子たちが苦しむこともない。 彼らとその子孫は,エホバに祝福された民だからである。 24 彼らが呼び掛ける前に私は答え, 彼らがまだ話しているうちに私は聞き入れる。 25 オオカミと子羊が一緒に食べ, ライオンは雄牛のようにわらを食べる。 蛇は土を食物とする。 これらは私の聖なる山のどこにおいても,荒らしたり危害を加えたりしない」と,エホバは言う。
イザヤ11:9 荒らしたり危害を加えたりするものはいない。水が海を覆っているように,エホバについての知識が必ず地上に満ちるからである。
エフェソス1:10 こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。
ペテロ第ニ3:8 愛する皆さん,このことを見過ごしてはなりません。エホバにとって1日は1000年のようであり,1000年は1日のようです。 9 エホバは約束を果たすのが遅いと考える人もいますが,そうではありません。神は,一人も滅ぼされることなく,全ての人が悔い改めることを望んでいるので,皆さんのことを辛抱しているのです。 10 しかし,エホバの日は泥棒のように来ます。その時,天はごう音を立てて消え去り,さまざまな要素は極度に熱くなって溶解し,地とそこでの活動はすっかり暴かれます。
黙示録20:7 1000年が終わるとすぐ,サタンは牢獄から解放される。 8 彼は出ていって,地の四方にいる人々,ゴグとマゴグを惑わし,戦争のために集める。その人々の数は海の砂のようである。 9 彼らは地上全体に広がって進み,聖なる人たちの宿営と愛されている都市を取り囲んだ。しかし,天から火が降ってきて彼らを焼き尽くした。 10 そして,人々を惑わしていた悪魔は火と硫黄の湖に投げ込まれた。そこにはすでに野獣と偽預言者もおり,彼らは永久に昼も夜も苦しめられる。
黙示録21:1 また私は,新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去っており,海はもはやない。 2 さらに見ると,聖なる都市である新しいエルサレムが,花婿のために着飾った花嫁のように,天から,神のもとから下ってきた。 3 その時,王座から大きな声がした。「見なさい! 神の天幕が人々と共にあり,神は人々と共に住み,人々は神の民となります。神が人々と共にいるようになるのです。 4 神は人々の目から全ての涙を拭い去ります。もはや死はなくなり,悲しみも嘆きも苦痛もなくなります。以前のものは過ぎ去ったのです」。 5 そして,王座に座っている方が,「見なさい! 私は全てのものを新しくしている」と言い,さらにこう言った。「書きなさい。これらの言葉は信頼でき,真実である」。 6 またその方は私に言った。「これらの言葉は実現した! 私はアルファであり,オメガである。始まりであり,終わりである。喉が渇いている人に,私は命の水の泉から無償で飲ませよう。 7 征服する人はこれらのものを受け,私はその人の神となり,その人は私の子となる。 8 しかし,臆病な者,信仰のない者,極めて不快な汚れた者,人を殺す者,性的に不道徳な者,心霊術を行う者,偶像を崇拝する者,偽りを語る全ての者は,火と硫黄が燃える湖に投げ込まれる。その湖は第二の死を表している」。
聖句にある通り、いずれも天地が過ぎ去った時点で新エルサレム降下と死者の復活のイベントが起きます。ですから義人たちへの永遠の救いと不義者の裁きは同時期に起こると解釈するのがベストです。
また、上記では悪を習わしにする人たちが第二の死を被ると表現されており、それらの人が新エルサレムが降下した地球外に放り出されていることもわかりますので、互いを害することがない千年統治の平和な期間が訪れる直前のサタンの世界である現世の人々が断罪されていると推測できます。ですから、新エルサレム降下は千年統治中であると推測できます。多くの復活してきた諸国民つまり未信者たちもキリストを受け入れるテスト期間が設けられ、合格すると画像上の新エルサレムに入り命の水を享受し永遠の命の保証を受けることができるでしょう。
ちなみに次の聖句では命の水を受けて魚が豊富になると書かれていますが、魚はクリスチャンを比喩的に表現しています。復活してきた諸国の民たちの多くがキリストを受け入れることが預言されています。
エゼキエル47:6 その人は、今見たことをよく脳裏に刻み込んでおくようにと言って、私をその川の岸に沿って連れ帰りました。 7すると驚いたことに、川の両岸にたくさんの木が茂っているではありませんか。 8その人はこう言いました。「この川は東に流れて、砂漠地帯とヨルダン渓谷を通って死海に注いでいる。こうして死海の塩分の多い水を浄化し、新鮮な水に変えるのだ。 9この川の水に触れるものはすべて生き生きとする。魚が住める水に変えられるので、死海にも魚がいっぱいになる。この水が流れ込む所はどこでも、すべてのものが生かされる。 10南はエン・ゲディから北はエン・エグライムに至るまで、死海の沿岸で漁師が漁をするようになる。岸には一面に網が干されるようになる。魚の種類も、地中海の魚と同じくらい豊富になる。 11だが、沼地や湿地は相変わらず塩水のまま残される。 12川岸にはあらゆる種類の果樹が茂り、その葉は枯れず、落ちることもなく、いつも実がなっている。毎月、必ず新しい実がなる。神殿から流れ出る水で潤されているからだ。その実は食物に、葉は薬になる。」
義人たちにとって死がない千年統治の楽園
黙示録では海もなく死も嘆きもないと言われてるのに、イザヤ書では海も死もあるではないか、おまけに黙示録20章の後半ではサタンが千年後に解き放たれて大量に人々が海の砂粒のように加勢して愛される都市を襲ってるからさんざんやないかと思われることでしょう。
まず「水が海を覆うように」とする箇所も原文に近いkjvでは「まるで」を意味する英単語asが挿入されています。そしてヘブライ語によるとkamと表記される部分が「まるで」とか「〜のように」を意味する原語になります。
「まるで」の意味は「たとえ話を引用する」です。ノアの洪水によって地球上の大半7、8割近くが海に覆われているとされていますが、それほどの広範囲に渡るまでに今度はヤフワの霊が地球上に蔓延することの主旨で「かつてあった海のたとえ話」を引用しているだけでしょう。ですから、現在のような広大な海はペテロ第ニの聖句にある通り蒸発して無くなるでしょう。海らしきものがあっても、それは創世記当初に神が海を創造された範囲の人類の驚異とならない程度の海でしかありません。そういう意味で、黙示録にあるような罪を象徴する「海」はイエスの再臨時に消え去ると予期するべきでしょう。
続いて、千年統治の際に死者がいるのかについてですが、これは非常に解釈がややこしいです。「罪人なら100歳で死にそれは若いとされる」という文言がありますが、これは現在の我々が100年程度の人生で罪によって死ぬことを引き合いに出して、新天新地ではそうでなく永遠に生きられることを強調するためとする解釈でも理解できそうです。
誰が祝福されるのかについてですが、イエスがヨハネ10章38節にて「報いを受けるために善良さを愛しなさい」とか「私を信じられないなら業(綺麗事)を信じなさい」と言われたように、聖書は善良さを愛して生きることで永遠の命の報いを受けることができると一貫して説いています。主を信じるとか口先だけの人間よりも、善良な生き方を行動で示す未信者や異教徒が神の国に入り永遠の命の恵みと祝福を受けることになることが、「神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」のイエスの言葉により明らかとなっています。(マタイ21:43)
黙示録21章24節に登場する「諸国民」は異邦人を意味する原語によって表現されていますが、彼らは新エルサレムに栄光を携え入るとあります。善良さを愛して柔和に穏やかに生きる善良な異邦人たち(キリストを知らずして亡くなり復活した善良な人たちや大艱難を通過した善良な大群衆)が神によって祝福されて命の書に書き記されることになることが預言されています。
新約聖書ではイスラエルをクリスチャン、異邦人を未信者として表現することが多く、彼らが新エルサレムに入る許可を与えられ信者となっている様子が描かれています。善人と悪人の間に大きな隔たりや優劣が生じ得て形勢逆転によって犠牲者の涙が払拭される希望の期間がキリストの千年統治なる裁きの日です。(誰が本当の義人だったのか全て明らかになる。)
ですから特に殉教者クラスのクリスチャンは第一の復活によって霊者としての不滅性を付与されていわゆる無敵状態になりますし、アダムとエバの子孫から構成される義人たちは、生前の善良さによって命の木の実を千年統治の裁きの日の最中の早い段階で享受して命の書に刻み込まれて、命の木の実を食べていた状態の地上の栄光の体を受け継ぎ永遠に生きることになるでしょう。あるいはアブラハム、ヤコブ、イサク、を筆頭とした旧約の義人たちは肉体的に死んでも「生きている」と表現されていることからも彼らには裁きの日のテスト期間は必要ありません。裁きのみ座の前に立つのは黙示録でも死者に限定されていますから、生前にサタンの世にて義人であることを証明した神の目に生きた信仰者たちは旧約、新約問わず千年統治は裁きの日のテスト期間ではなく永遠の安息日になります。(ルカ20:37,38)
ヨブ記5:19 主は六つの悩みのうちにあなたを救い出し、七つの目の悩みと悪があなたに触れることはない。(七千年目の千年王国で義人や動物が害を被ることは無い 。エリパズは正確な解釈を間違った動機で不適切な相手に伝えているのが問題。ヨハネ11章50節でカヤファがキリストの死を予言し、民数記24章17節でバラムがメシア降臨を予言したのと同じ。)
既に生前のおおよそ100年の人生の中でとりわけサタンの惑わしが強力な過去や現世において神への忠誠を示した旧約中の義人たちは既に命の書に記されています。第一の復活の「第一」とはギリシャ語で「時期的な早い段階での最初」、主に「位が一番」の意味があります。せやから、殉教者クラスのクリスチャンは天国で霊者として「位が一番高い」不滅性を付与された復活に預かります。対してコリント第一15章40節では「地の栄光の身体」もありますので、アダムとエバを含めた子孫たちの義人は、「位が二番目」の第二の復活として命の木の実を食べた地上における不滅性を付与された完全性の状態で復活すると思われます。
それにヨハネの黙示録とはクリスチャン宛の手紙ですし、「死も嘆きも苦痛もない」とする希望は読者の中でも衣を洗い新生した罪を犯さない大艱難を通過した大群衆や復活した義人たちに対するものです。ですから、千年統治の際に誕生する命、サタンの世で堕胎されて楽園で復活する命、あるいはキリストを知らずに亡くなられた人々は裁きの日の期間中、とりわけイザヤ書にあるようにテスト期間は最低でも100年と見越されますが、その期間中はおそらく新エルサレムには入れても、「永遠の命の保証による不滅性を付与されるための」命の木の実を食べられないでしょう。
千年統治後に地上の新エルサレム周辺から広がり構成される「愛される都市」に居住していない人々がサタンに惑わされ加勢して猛攻撃してくるので、今度は現世の大艱難と異なり指一本義人たちが触れられることなくそれらゴグとマゴグたちが奇跡的に滅ぼされることになっています。
イザヤ書にも明記されているように、「殺人、いじめ、虐待」などは千年統治中には皆無ですし、復活した不義者たちが千年期間アビスに幽閉されている悪魔の誘惑を受けずとも自ら悪事を企み人や動物に危害を与える変節者の傾向があるなら、それはゼカリヤ14章17節からの描写における「礼拝に行かない」まだ生存中に全然赦しが得られる罪とは異なり、実害を及ぼす存在故に即座に「呪われた者」としてキリストと天国クリスチャンによって裁かれ消し去られて人々の記憶からの抹消されヤフワ神の聖なる山の秩序が保たれることでしょう。
創世記の記述ではサタンがエバを唆しアダムが罪に引き込まれたゆえんに、やはり千年間サタンが地球に介在することが無い期間は、新たに誕生する生命にとっても罪とは全く無縁の世界かもしれません。そうなると、千年統治後のサタンが解き放たれた時までに、百年程生きていた成人が、その試みの際に悪魔に唆されて罪に引き込まれることで死亡することを示唆しているとも考えられます。(※別の可能性も後ほどメモ書き)
アダムも含めて現代を生きる我々人類は全員真理を知った後にもサタンからの攻撃や誘惑に苛まされています。復活後に初めて神を知った人たちが、サタンからの誘惑に千年後一度だけ合うのは我々の人生条件と同じ扱いになります。
この点において「死も嘆きも苦痛もない」世界で生きる人々は、完全に義人だけであることを聖書は説いています。裁きの日の期間、あるいはラストパートにおいてはキリストと天国クラスのクリスチャンの裁きによる判断で不義者たちの死が生じ得る可能性は聖句で明白に説明されています。なぜなら千年統治なる千年王国とは現世で苦労した義人たちにとって永遠の祝福で死も嘆きもない世界である一方で、不義者たちにとっては裁きの日の期間でもあるからです。
ただ、キリストを知らずして亡くなった不義者たちを言語道断で唐突に第二の死に至らせるわけもなく、所詮第一の死を迎えた斟酌ありと判断された人々は、キリストと天国クラスの人々、または旧約聖書の義人たちや大艱難を通過した大群衆たちから教育され憐れみを受けることにはなります。
アダムと同じく人類はおおよそ1000年程度の人生を平等に与えられるべきであり、それを考慮するなら不義者たちがキリストを知らずに罪によって現世で100年程度で死に絶えても、彼らも我々と同じくキリストを知り学ぶ必要があると見越すのが公正な扱いです。詩篇90篇10節でもあるように、神は人の労苦を減らすために人生100年以下に設定されて死によって安楽の眠りに入るようにされました。死はアダムの人生であった1000年間のスパンの通過点でしかありません。
一方で大群衆たちは大艱難を通過して、神のみ座の前にて賛美をしていると推測されますので、彼らは既に新エルサレムに出入りして「愛される都市」と呼ばれるキリストと天国クラスのクリスチャンが徹底保護している安泰な楽園にて穏やかな生活を営み「死も嘆きも永久に過ぎ去った」幸福を味わうことでしょう。第二の復活として地上での栄光の身体を有していますが、徹底してキリストと天国クラスのクリスチャンたちから保護を受けるでしょう。
新たに誕生した魂やサタンの世で罪人だったそれらは、神と隣人にとって脅威とならない忠節な愛を保ち永遠に生きるに相応しい品性であることを証明する必要が倫理的に求められます。それぞれ復活してきた人たちがどのタイミングで永遠の命の保証を受けるかについては、相違があるのでしょう。
復活した義人たちは娶らず嫁がずか
マタイ22:29 イエスは答えて言われた,「あなた方は間違っています。聖書も神の力も知らないからです。 30 復活のさい,男はめとらず,女も嫁ぎません。天にいるみ使いたちのようになるのです。 31 死者の復活については,神によってあなた方に語られた事柄を読まなかったのですか。こう言われました。 32 『わたしはアブラハムの神,イサクの神,ヤコブの神である』。この方は死んだ者の神ではなく,生きている者の[神]なのです」。 33 [これを]聞いて,群衆は彼の教えに驚き入った。
エゼキエル37章では死者の骨が肉を纏い魂が宿り霊を吹き込まれ復活し、彼らが羊飼いなるイエスに養われる状況が描写されています。殉教者クラスのキリストの共同祭司のみが復活するのではなく、14節では養われる側も復活する預言になっています。さらに25節ではその子々孫々も誕生している前提で安住することが描かれています。
まとめ
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死者の復活と新エルサレム降下は、現世の天地が過ぎ去った時点で起こることが黙示録20章11節22章で示されているので千年統治開始の直後に起こり、イザヤ書11章9節の「水が海を構成するように」はたとえ話の引用である。
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「死も嘆きも苦痛もない新エルサレムから広がる愛される都市」に安息するのはヨハネの黙示録を読むクリスチャンや大群衆や旧約時代の義人たちのみであり、千年統治は義人たちにとっては永遠の祝福の安息日であるが、キリストを知らずに亡くなった不義者たちや新たに誕生する可能性がある命にとっては裁きの日の期間であるために彼らに死は生じ得る。
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命の木の実を食べるか否かにおけるテスト期間は最低でも100年かあるいは復活したと同時に付与されるケースが有ったとしても生前における義人のみで、それ以外で短縮されるケースがあっても公正な裁きと判断はキリストと天国クラスのクリスチャンによるもの。
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最後の千年後に反逆する人々は新エルサレムから広がる愛される都市に居住する義人たちと異なり、千年統治の間にて誕生した人々や、復活してからキリストを学ぶ不義者たちでキリストやクリスチャンの計らいで命の木の実を食べることや新エルサレムやそこから広がる愛される都市に居住することを許されていない人たち(不義者や異邦人)である。
- 千年後のサタンの誘惑によるテストは、愛される都市に居住する命の木の実を食べた天地の不滅性を帯びた栄光の身体を有した義人たち(善良な異邦人を含めて)に対するものではなく、キリストを知らずに亡くなった不義者たちや楽園で新たに誕生した人々や地の四隅に居住する命の木の実を食べていない人たちに対するものである。
と推測できます。いずれにせよ誰がどの段階で新エルサレム内部にある命の木の実を食べる権利を得るかは、心の中を見るキリストと天国クラスのクリスチャンにしかわからないでしょう。ただ、過去や現世の犠牲者たちはキリストと共同祭司クリスチャンの判断により優遇されて手厚い祝福を付与され復活と同時に命の木の実を食べて永遠の安息に入り、高められることもあるでしょう。一方で斟酌ありとみなされキリストを学ぶ機会を得た不義者たちや新たに誕生した人々も大勢いるでしょうが、最後にサタンに加勢することにもなるケースも多くあるのでしょう。
斟酌の余地がある人達が地上の楽園に復活し、キリストを学び命の木の実を食べて永遠の命を得て、新エルサレムや愛される都市に居住できるか否かについての裁きと判断は最短で100年、最長で1000年ありますから、その長いスパンの中で的確に取り扱われることになります。それら不義者と異なる祝福を享受し、永遠の安息にキリスト再臨後すぐに入りたいと願うのであれば、黙示録22章13節にある通り、サタンの誘惑に現段階で勝利して悔い改めて衣白くすることが懸命な判断と言えます。そうすることで、キリストを知らなかった不義者たちと異なり、彼らよりも先に新エルサレムから広がる愛される都市に永遠の安息に入ることになれるでしょう。
マタイ19:28 『あなた方に真実に言いますが,再創造のさい,人の子が自分の栄光の座に座るときには,わたしに従ってきたあなた方自身も十二の座に座ります』
ルカ13:24 「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。 25家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。 26そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。 27しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。 28あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。 29そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。 30そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」
黙示録22:13 わたしはアルファでありオメガであり,最初であり最後であり,初めであり終わりである。 14 自分の長い衣を洗って,命の木に[行く]権限を自分のものとし,その門から都市の中に入れるようになる者たちは幸いである。
※千年統治後のゴグマゴグが、大艱難を通過して地の栄光の体を有した大群衆たちの子孫であるかは謎です。むしろ、エノク書22章を考慮すると、裁きのために復活してきた悪人たちなのではないかとも推測できます。ルカ13章24節から30節の以下の記述を文字通り解釈するなら、全く斟酌のない人たちが滅ぼされるためだけに復活して義人たちが神の国で安息に入っている様子を見て、ゴグマゴグのように歯ぎしりして自らも新エルサレムに突撃して強行突破して命の水及び木の実の恩恵に与ろうとするのかもしれません。先の者や後の者とある通りやはり復活において時差はあるのでしょう。神の前に「生きている」アブラハム、ヤコブ、イサクと異なり斟酌なしとみなされる人たちについて「残りの死者は千年が終わるまで生き返らなかった」と表現されて、何の贖罪期間も与えられないことを示唆する強調表現と言える可能性もあります。

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