外典ミドラッシュの記述
外典ミドラッシュでは、エフタの娘はエフタとピネハスのプライドのために実際に人身御供で捧げられたとあります。その中では、神がまずエフタの誓いに「最初に何でも出てくるものがラクダであっても捧げるなど無礼であるから娘において成就せよ」と反省させる意図でそうさせたとあります。しかし、エフタは失礼な誓いを立てたことを反省せず、娘に「アブラハムはイサクを捧げなかった、サンヘドリンに行けば律法を調べて何か解決の糸口があるはず」と言われたにも関わらず、「誓いを無効に等できない」と言い放ち頑固になりました。挙句考えなくとも当然わかるはずの善悪の判断を律法に見出そうとする不信仰な態度に神が腹を立て、エフタがサンヘドリンに出向いても律法を見つけ出せないようにしました。
そこで、今度はピネハスが登場するのですが、主の霊が望む彼こそが今回の軌道修正をするべき立場にあり神も期待していたと思われますが、これも何故か頑なになり「この祭司なる私があのエフタという遊女の息子のために出向いてやるのか」と述べて、エフタを指導することを怠ったとあります。エフタも同時に「このイスラエルの勇士なる自分が、ピネハスなんかに助けられるのか」のような発言をして、この二人の怠慢と傲慢さのゆえにまさかの神も予期せぬ背教によってエフタの娘が犠牲としてささげられたとなっています。その時忌むべき人身御供の捧げものに対して、天で神の叫び声「私が本当に人を奉納してほしいと思っているのだろうか」が上がり、ピネハスからは聖霊が離れ何らかの罰が降り、エフタも死後はギレアデの町々に遺骨が埋められたとあります。それで毎年テベット月に水は血に変わりイスラエルの女たちは四日エフタの娘のために喪に服したとあります。終わり。こちらを引用
で、「おお!そうなのか」と思いきやおかしな話があります。まず外典のピネハスは士師記の時代の大祭司エリの息子のピネハスではなくモーセの時代の祭司とされており、士師記とは300年くらいの時差があります。「聖書年代別」とかで検索したらごまんと出てきます。エフタは西暦前1173年頃の活躍に対し、モーセの時代のピネハスは西暦前1400年、2603AM前後に死去しています。エフタは2853AMから裁き人として従事して、2858AMに死去したわけなので、それぞれ250年以上も年齢差が離れていることになります。それで、奇妙なミドラッシュの記述があるのですが、ピネハスは聖書中のエリヤの別名だとされており、以前にエフタの娘の件で罪を犯し悔い改めた後にエリヤとなって生まれ変わったそうです。Pinchas is Eliyahu(elijah) midrashとでも検索してください。
ピネハス家系の子孫祭司をピネハス(つまりピネハス2世等)と統一して命名しているか、士師記の時代のイタマル族の祭司エリの息子ピネハスならまだしも、寿命以上の年代を時を超えて生き延びて、挙句エリヤとして生まれ変わって天使になったとかあるわけですが創作話でしょう。しかもウィキペディアではピネハスのエフタの娘の件での背教でイタマルの祭司エリに祭司職が譲渡されたとありますが、タイムマシンで未来にやって来る以外につじつまが合いません。
それで、この外典の情報が信頼性のあるものかは、ラビの間でも議論されていますし、タルムードの悪霊の息がかかった経典の可能性が非常に高いでしょう。あの有名な一世紀時代に生きた歴史家ヨセフスもエフタの娘はそのまま人身御供されたと古代詩に書き残しています。しかし一世紀当時はフィロンといったギリシャ哲学とユダヤ教との融合が顕著になりつつ、パリサイ派の聖書解釈も大いに間違っていることからも、ヨセフス含めた当時のユダヤ人たちの認識が妥当か、エフタの娘が実際に奉納されたかは、あくまで原語精査をする必要がありますので調べましょう。
律法で禁止されている人身御供
士師記11:30 その時エフタはエホバに誓約をしてこう言った。「もしアンモンの子らを間違いなくわたしの手に与えてくださるならば, 31 わたしがアンモンの子らのもとから無事に戻って来た時にわたしの家の戸口から迎えに出て来る者,その出て来る者はエホバのものとされることになります。あるいは、わたしはその者を焼燔の捧げ物としてささげなければなりません」。
聖書批評家たちは、エフタの娘はエホバに字義通り「焼いた捧げもの」として奉納されたと断言し非人道的慣習を非難します。一方で原語から観察するともう一つの可能性が見えてきますし多くのラビたちもこれを支持していますので調べましょう。
申命記 18:9 あなたの神エホバが与えてくださる土地に入った時,そこの国民の忌まわしい行いをまねてはなりません。 10 あなたの中に以下のような人がいてはなりません。息子や娘を火で焼く人,占いをする人,魔術を行う人,吉凶を判断する人,呪術師, 11 呪文をかける人,霊媒師や占い師に相談する人,死者に尋ねる人などです。 12 エホバはこうしたことを行う人をひどく嫌い,これらの忌まわしい行いのためにエホバ神はそれらの国民をあなたの前から追い払います。
23:3 混血の人は主の会衆に加わることはできない。十代目になっても主の会衆に加わることはできない。
イスラエル周辺国家のアモン人、モアブ人、カナン人などは乱交によって妊娠した子供、要は赤ん坊を人身御供で偶像に捧げて奉納していました。そのためにヤフワはイスラエル国家を死刑執行集団として用いて特にヨシュアを聖絶の戦士リーダーに任命し腐った国家を滅ぼし絶やし、それらを悪と罪の縄目から解放しました。聖絶された人々は罪の報いを受けて今は死の眠りにつき、やがて復活しキリストを学ぶことでしょう。
士師記は聖絶の戦士ヨシュアが死んでから、イスラエルが霊的に荒れた状況を詳細に描写しています。
士師記17:6 そのころイスラエルに王はいなかった。すべての者は自分の目に正しいと見えることを行なっていた。
エフタは異国の遊女の子供から生まれ異教の人身御供の習わしを目の辺りにしてその影響を受けていた可能性があると仮定するなら、彼が士師記11章で「最初に戸口から出迎えたものを神に焼き尽くす生贄として捧げます」と無茶な賭けをしたことも理解できます。
しかし、人間を生贄とする儀式などイスラエルの律法では禁じられていましたし、生贄を捧げる場合は理性のない動物が用いられそれらは即死による安楽死によって捧げられています。エフタは遊女の子、私生児であり娘も天幕に入れないとなるでしょうか。それとも人身御供自体が敵対国家を滅ぼす理由となるほどの悪事で律法違反であるゆえに、それを拒絶するでしょうか。天秤にかけてどちらを選ぶかは普通の人なら理解できるはずです。
人間を捧げますとレビの祭司たちに申し出たところで、外典のように過去からタイムスリップか生まれ変わったピネハス(エリヤ)?が職務怠慢で見逃すより、周囲のイスラエル民含めて複数祭司たちが再考させるでしょう。
また人間を捧げるなど律法違反であるからこそ、代わりに貨幣を支払うべきとするレビ記27章1-8節の律法も効力がありました。
冷静に考えてこの聖句箇所を人身御供として認識し、その後のエフタが裁き人として12章からも仕え続けていると解釈するのも無理があります。
エフタは自分の先祖アブラハムがイサクを犠牲にしなかったこと、神によって歯止めをかけられたことを知っていたはずです。彼は、主が自分の言葉の証人であるとし、「ミツパで主の御前に出て自分が言った言葉をことごとく繰り返し」(11節)ました。エフタのアンモンの王に対するメッセージ(14節から27節)から分かるのは、彼は「律法の書物」に記録されている通りに自分の民族の歴史について熟知していたということです。ただ歴史的事実として知っているだけでなく、それら全てが主のもとに起きたこととして認識していたことから、彼がとても詳しく学んでいたことが分かります。
エフタは全ての出来事がエホバの神から起きていると知っていました。「シホンとそのすべての民をイスラエルの手にお渡しになった」(21節)のは主でした。アモリ人をイスラエルの前から追い払ったのは、エホバの神、イスラエルの神でした。(23節)エフタとイスラエルの民が得たものは全て神が与えられたものと信じていました。(24節)そして、イスラエルの民とアンモンの間に立つ審判者はエホバの神であると信じていました。(27節)
エフタが神に審判を求めた時、「主の霊がエフタに臨」みました。そしてここでもまた、神の御業における聖霊の働きを見ることができます。(29節)この聖霊の力によって、エフタはアンモン人と戦い、エホバの神はアンモン人を彼の手に渡すことによって彼の信仰に栄誉を与えました。(32節)
「または」焼き尽くす捧げものとして
ヨシュア1:7 「ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない」出エジプト20:4 「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない」出エジプト記21:15 「自分の父あるいは母を打つ者は、必ず死刑に処せられる」出エジプト記21:17 「自分の父あるいは母を呪う者は、必ず死刑に処せられる」出エジプト21:18 「人々が争って、一人が他の一人を石、もしくはこぶしで打った場合は、彼が死なないで、床に伏しても、」列王記第一18:27 「真昼ごろ、エリヤは彼らを嘲って言った。『大声で呼ぶがいい。バアルは神なのだから。神は不満なのか、それとも人目を避けているのか、旅にでも出ているのか。恐らく眠っていて、起こしてもらわなければならないのだろう。』」否定語と一緒に使う「NOR」は同じように正しく結論付けの意味を持ちます。出エジプト記第20:17 「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」申命記第28:36 「主は、あなたをあなたの立てた王と共に、あなたも先祖も知らない国に行かせられる」サムエル第二1:21 「ギルボアの山々よ、いけにえを求めた野よ/お前たちの上には露も結ぶな、雨も降るな」申命記28:64 「主は地の果てから果てに至るまで、すべての民の間にあなたを散らされる。あなたも先祖も知らなかった、木や石で造られた他の神々に仕えるようになり」箴言30:8 「貧しくもせず、金持ちにもせずわたしのために定められたパンでわたしを養ってください」箴言30:3 「知恵を教えられたこともなく聖なる方を知ることもできない」
さらに、当時のイスラエル人の家では家畜たちが一階の玄関口近辺に飼育されており、エフタを出迎える、というか出くわす対象は動物なる家畜であった可能性が高いといえます。
しかもこの聖句の「戸口から出てきたもの」は男性(ハヤ)を意味する原文構成になっていることからも、玄関口に飼育されている雄の動物を焼き尽くす捧げものとして奉納する意図だったことも理解できます。エフタにとっては、一人娘しか跡取りがいませんから、男性の身内はいません。
家の戸口から出てくる「何でも」の原語はアセル、これは民数記5章10節でも用いられている原語ですが、そこでは「者」ではなく「物」を意味しています。要は状況によっては動物とか家畜とか穀物とかを指しているのであって、人を指す意味ではありません。
つまるところ、エフタは最初から人身御供など全く意図しておらず、単純にイスラエル律法に則った捧げものとして、「雄の家畜」を焼き尽くす捧げものとして神へ奉納する意思表明をしていたと解釈することが自然でしょう。
エフタが何を飼育していたかはわかりませんが、彼は帰宅して玄関を開けると雄の家畜なる動物が出迎えてくれることを念頭においていたのでしょう。
人を捧げる場合
出エジプト38:8 次いで彼は銅の水盤とそのための銅の台とを造ったが,それは,会見の天幕の入口で組織的奉仕に携わっていた婦人たちの鏡を用いて[造られた]。サムエル第一2:22 ときに,エリは非常に年を取っていた。彼は自分の息子たちがイスラエル全体にしていたすべてのこと,また彼らが会見の天幕の入口で仕えていた女たちと寝ていたことについても聞いていた。
士師記11:37 そして彼女は父親にさらに言った,「わたしのためにこの事が行なわれますように。二月の間わたしを独りにさせて,行かせてください。わたしは山に下りてまいります。そして,わたしの女友達と共に,わたしが処女であることについて泣くことをお許しください」。38 それで彼は言った,「行きなさい」。こうして彼女を二月のあいだ去らせた。彼女は自分の女友達と一緒に出かけて行き,自分が処女であることについて山の上で泣き悲しんだ。 39 そして二月が終わると,彼女は父のもとに帰った。そののち彼は,[娘]について自分が立てた誓約をそのとおりに行なった。彼女は男と関係を持つことはなかった。そしてイスラエルにおいてはこれが定めとなった。 40 すなわち,年ごとにイスラエルの娘たちは出かけて行き,年に四日ずつギレアデ人エフタの娘を褒めるのであった。
この聖句では、たしかにエフタの娘は「死ぬことを嘆く」のではなく「結婚できないこと」を嘆いており、後半部分では「男との関係は生涯なかった」と何度も強調していることからも、会見の天幕で生涯働いて結婚することがなかった可能性が高いです。
字義通りエフタの娘が人身御供されて捧げられるなら、普通はバージンであることを嘆くのではなく、その残虐非道性や死ぬことについて嘆くはずですし、しかもイスラエルの女友達も人身御供されるエフタの娘とその父の異様さを指摘して止めるのが自然の流れでしょう。
死ぬ前提でなおかつバージンであることを嘆くのであれば、二ヶ月間の猶予をエフタにもらうのではなく、むしろ「死ぬ前に結婚させてほしい、そして子供を授かり生んで跡継ぎを残してから死なせてほしい」と願い出るのもあり得ます。レビ記1章3節、4章3節-35節、22章18-25節では、犠牲として捧げる動物は「傷のないもの」(ヘブライ語で「タミーム」ですが、怪我や病が無いもの)と規定されています。動物には処女膜は存在せず交配と子孫の有無が直接的条件とする規定はありませんので、死ぬ前に必ずしも処女であるべきとする規定もありません。
文脈を考慮すると、エフタの娘が余生において男性と関係を持つことでバージンを失わぬように、貞潔さを保ちながら夫ではなく神だけに属する者として過ごしたと予測できます。(わざわざ人身御供で死期を早めるのではなく、貞潔に過ごす必要があるために、それを嘆いてる。)
さらに士師記の該当箇所では、誓ったとはいえ、大祭司エリの息子と関係に至った女性たちが咎められていないことからも、エフタの娘は本当に余生を貞潔さを保ちながら結婚もせずに過ごして誓いを果たすべきか覚悟を決めるためにも神や祭司に「尋ねる」目的で友人を伴い、山々に出向いたと推測されます。
古代ユダヤ偽典のフィロンにてエフタの娘の名前セイラが登場します。サムエル第一1章28節において、「サムエルは捧げられた」わけですが、「捧げられた」のヘブライ語はH7592שָׁאַל(shaw-al')読み方はシャエルで「尋ねる」の意味があります。sheilah読み方は
「セイラ」の語源と言われています。こちらを引用 セイラはシャエルの女性の名前として変形 つまり、エフタにとって一人娘の跡取りを失うことで身の毛のよだつ思いをしたとはいえ、サムエルのようシロの神殿に捧げられる意味合いがエフタの娘の名前セイラに込められているわけですから、必ずしも人身御供の方法で奉納されたわけではないことが読み取れます。
最終的にエフタの娘は山々で色々な人に友人達を伴い相談しても自発的に強い信仰で「生涯主の天幕で働く、多忙で結婚も育児もできないことになってもそうする」ことの意思表明を示したと理解できます。
また焼き尽くす捧げ物の原語はオラーであり、それも元来は「完全なる捧げもの」を意味しています。通常は焼いた犠牲の一部を祭司から返してもらって食べることもできたようですが、オラーの場合はそれがないし、人が主のものとなる場合買い戻すことができない規定があります。(レビ27:28)
後半部分ではkjvによると「エフタの娘を嘆く」「エフタの娘を(に)語る」の二通りが概要欄に添え書きされていること、また年々エフタの娘を訪れているとも表現されていることからも、彼女が律法違反による人身御供で捧げられと解釈するのも結構無理があると思います。「エフタの娘」への前置詞“ラーメド ” 〔to/for〕の使用は,彼女について語ることをも,彼女に話しかける-もし彼女がまだ生きているのであれば-ことをも意味し得るのです。こちらも引用
また「嘆く」がkjvの標準になっていますが、実は「嘆く」を意味する原語のtanahには「褒める」という意味もあります。つまりエフタの娘はその信仰の歩みによって慰められ褒められた、または語りかけられたと解釈できます。
エルカナとハンナの家族によるシロの神殿への年に一度の訪問があったことからも、エフタの娘はエホバの幕屋の奉仕のために頻繁に友人たちとも会えなくなったことも推測できます。この見解を支持するべく,この儀式の持続期間は
“ミッ・ヤーミーム ヤーミーマー
”(11:40)-逐語的には,「日から日へ」-と表現されています。ある「しきたり」と結びつく時,それは「永久に」(出エジプト記13:10)を意味します。しかしそれはまたサム
エル記の冒頭に記されている,エルカナとハンナの家族によるシロの神殿への年に一度の訪問にも使われます。これは特定の家族の一生の間(サムエル
記上 1:3 , 2:19),あるいはここのように,エフタの娘の一生の間,何度も
定期的に発生する出来事を含意するものだったでしょう。エフタの娘への訪問のために許可された実際の時は4日でした。その際「しきたり」について
の言及は,その誓いの重大性を前提として考えれば,これら年ごとの短い訪問を許可するために,ある特別な譲歩がなされたということを意味しているでしょう。そして、ヘブライ語聖書中で後代に渡ってそのしきたりが執り成されていないことや同じ事例の女性が登場しないことから、エフタの娘が生きている間に限定された「しきたり」であることが見えてきます。
新共同訳ではエフタの娘の死を嘆くと訳されていますが、原文には「死」という単語は出てきません。単純にエフタの娘を慰める(を語る)と表現されており、しかも毎年4回エフタの娘を訪れたと表現されていますので、生きていたのでしょう。
ただ、当時のイスラエルでは不妊は災いですし女性の存在価値が消失するほどの大問題でしたから、エフタの娘にとっては生涯独身で子供を持たずに生きることは、もしかすると死ぬより辛い出来事だったかもしれません。
気をつけるべき点
百歩譲って輪廻転生?したピネハスとエフタの双方が罪を犯したとする外典から学べることは、主の霊が降った立場のある人でも大いに罪を犯すということです。エホバの証人の人たちとて最初こそ神の霊を味わうこともあるでしょうが、未来永劫安泰でもないし、自由意志によって悪魔の下僕に成り下がることもあり得ます。盲従は危険です。
ヘブライ人11:32 そして,このうえ何を言いましょうか。さらにギデオン,バラク,サムソン,エフタ,ダビデ,またサムエルや[ほかの]預言者たちについて語ってゆくなら,時間が足りなくなるでしょう。 33 彼らは信仰により,王国を闘いで撃ち破り,義を成し遂げ,約束を得,ライオンの口をふさぎ, 34 火の勢いをくい止め,剣の刃を逃れ,弱かったのに強力な者とされ,戦いにおいて勇敢な者となり,異国の軍勢を敗走させました。
ダビデの姦淫と殺人の一過性の罪と異なり、国家全体が滅ぼされる聖絶の対象となる大いなる罪である人身御供したケースをパウロが手本として引き合いに出すとは言い難いですから、エフタの娘は一生涯会見の天幕で仕えることに従事して結婚の出会いも遊ぶ時間も見いだせず、全てを捧げた信仰の手本として引用されたと解釈することが理論的です。
黙示録14:4 これらは女によって自分を汚さなかった者である。事実,彼らは童貞である。これらは,子羊の行くところにはどこへでも従って行く者たちである。これらは,神と子羊に対する初穂として人類の中から買い取られたのであり, 5 その口に偽りは見いだされなかった。彼らはきずのない者たちである。
引用元:実際に捧げられたのか 士師エフタとその娘


申命記 18:10の「息子や娘を火で焼く人」は、イスラエル周辺で流行っていた異教の教えへの忠告だったんですね。
返信削除パウロはエフタを信仰の勇士として引用してますし、神様に望まれない生贄や犠牲等は捧げていないはずですし、聖書を文字通りに読んでしまうと恐ろしい勘違いをしてしまうのですね。
pjさんがおっしゃる通り、エフタの娘は人生を神様に捧げたって解釈するとすごく自然ですし、納得です。
「うちの猫は良く玄関に走っていき私達が帰宅すると真っ先に出迎えてくれます。同様にエフタが何を飼育していたかはわかりませんが、彼は帰宅して玄関を開けると雄の動物が出迎えてくれることを念頭においていたのでしょう。」
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本音を言えば、エフタの帰宅を出迎えてくれる心優しい雄の動物が気の毒でなりません。(ついでに娘もやや気の毒だと思ってしまいます。)
仮にこの優しい動物が先に出迎えていたら、殺される運命ですし、この動物は生き返った時に何かご褒美が貰えるのか?と気になってしまいます。