第三の天で臨死体験か
コリント第二12: 2 わたしはキリストにあるひとりの人を知っている。この人は十四年前に第三の天にまで引き上げられた――それが、からだのままであったか、わたしは知らない。からだを離れてであったか、それも知らない。神がご存じである。
外典エノク書22章13節でも「眠りに就いて復活しない霊魂」が描写されています。霊魂不滅の根拠強化の元になったエノク書ですら眠っている霊魂がいると述べることからも、人は死ぬと眠るのがデフォルトと言えます。人間の霊単体で亡霊となり意識を有することはないのです。
ただ、上記のパウロも「体を離れて」第三の天へ引き上げられた可能性を否定していません。このことからも霊魂が肉体を離れて意識を持つことはあるのでしょうか。その根拠となるべき聖句を探しましょう。
命の与え主から霊の体を付与される
コリント第一15章45節にて、「最後のアダムなるイエスは命を与える霊となった」とあります。これは、イエスのような霊者たちなる御使いが自由自在にある程度の生命力を付与できる可能性を示唆していると推測できますし、実際に堕天使たちは人体を創造し受肉して地上で半分霊として体を有するネフィリムを生み出しました。また、復活後のキリストはさらなる全権を付与されているために、啓示3章14節にて「過去、現在、未来にわたって存在する万物の真の証人である方、神に造られたものの根源(アルケー)である方からのものです。」と呼ばれる至高の存在となっています。少し話があちこちに飛び交いましたが、人の霊が意識を有するためには「命の与え主」なるイエスから一時的でも命を有するように創造インパーテーションされるか仮の霊体をレンタルする必要があります。なので、パウロの霊が肉体を離れて意識を有していた場合、彼の霊魂はイエスによって命を有することができる霊者の体を一時的に付与されていると考えられます。一般的な神学では、魂は不完全な人間が有する精神、霊は神が与えた像とされていますが、時に一緒くたにされる時もあり曖昧で分かりにくいものです。
命の与え主は、人間の品性、本性がインストールされている霊魂に命を与えることが出来ます。それは勝手に一人で意識を有しながら亡霊として天へキリストによって引き上げられたのではありません。あくまで何らかの御使いに近い霊者寄りの体を有することが出来るよう命を付与されたからこそ意識を維持できて第三の霊的な領域で思考することが出来たと考えられます。これはプチ復活疑似体験みたいなもので本格的な無制限無期限の将来の第一の復活ではありませんでした。また主イエスことミカエルは、モーセの体や霊魂のことで悪魔と議論したことがあります。(ユダ9)
ですから、結論としては臨死体験は普通にあり得ると言えます。しかし脳の仕組み上、右脳が活性化すると死後に臨死体験をする可能性もあり得るようです。ここで気をつけたい場合は、人が幽体離脱をして品性がインストールされた霊魂が離れて、何らかの臨死体験をしたとするなら、それは一体何由来なのでしょうか。聖霊か悪霊の二択しかありません。堕天使やサタンは無から単体の独立した新たな命を生み出すことはできないかもしれませんが、自身の霊体を分与、インパーテーションすることで既存の霊魂を生かすことができます。これが交霊術なわけです。
その霊魂を「生きた魂」として一時的にインパーテーションする命の与え主の存在が不可欠です。勿論それがキリストであるなら喜ばしい体験となりますが、堕天使であるならそのサタンの霊との融合によって霊的体験をしているわけですから、大変問題です。
まとめ
ですから、聖書では降霊術を禁じているわけです。それは人間の霊魂を邪霊に明け渡す、いわゆる魂を売り渡す可能性を意味し得るからです。またイエスの名で堕天使、悪霊、サタンを追い出せとすら言われています。それほど忌み嫌われることなのですから、安易に臨死体験をしたと語る人が本当にイエスによって啓示を与えられたのか、はたまた堕天使によるものかよく吟味しましょう。多くの人はネットで顔出ししながら興奮気味でジーザスを天で見たとか地獄で臨死体験してジーザスに助けられたとか言ってますが、偽まがいの可能性は非常に高いでしょう。彼らは悪魔に霊魂を乗っ取られて命を与えられて臨死体験をしたわけですから、非常に危険な存在です。臨死体験を語る人に気をつけてください。


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