新約聖書に祈りの歩行は登場しない
しかし、新約聖書にはそもそも旧約聖書中のエリコの城壁崩しのために建物の周りを13周歩けとは書いていません。イエスもパウロも祈りの歩行とかして、過去の惨事を霊の目で覗こうとしていません。人が勝手にアレンジして生み出した新たな教えです。しかし、とにかく祈り自体は否定されるわけもなく、良い側面もあるとは思います。
ですが、これら祈りの歩行をかなりの頻度でしているカリスマ派の一部の方々は、様々な不幸が生じた現場、事故物件?とか殉教地とかかつての戦地に赴いて、「とりなしの祈り」とか言って、過去に生じた出来事を思い起こして瞑想し、死者のために熱烈なとりなしの祈りなどをするわけです。〇〇山に龍の悪霊がいるから、祈りで戦いに行くとか言ってますが、霊の世界を覗く前提で当たり前のように赴きます。
これは、聖書に書かれている原則を無視した教えと思います。せいぜい、土地のために祈る事自体は良いかもしれませんが、過去に起きた出来事を瞑想して思い起こして、しかもカリスマ派特有の「霊の目」を開いて、過去の出来事を呼び覚まそうとしているわけです。
しかも彼らは「霊魂不滅」の教えを支持しているために、それを前提とした考え方をしており、なおさらその場所で起きた過去の出来事を思い起こしながら、死者の霊が彷徨っているので、それらに語りかけて伝道するとか言ってます。
霊魂不滅は聖書の教えでは実はありません。死者の霊に見えるものを感じたなら、それは悪霊たちがそれら死者の霊になりきって表現しているだけです。だからこそ聖書は死者との語り合いを断固として禁じているのです。
聖書は死にゆくアダムとエバの子孫に伝道し祈るように言っているだけで、その他諸々の土地とか過去に死んだ人々のために熱烈な祈りをして、それらの人が「天へ引き上げられる様に」供養する様に言っていません。
おおよそ、霊魂不滅ではないことを念頭に置いて「〇〇が将来復活し、憐れみを受けますように」という程度の祈りは正しいですが、現地に死者の霊が彷徨っているとする教えはインチキです。
祈りの歩行愛好家は、「〇〇で祈りの歩行したら〇〇で自殺者が減ったらしいよ」とかいってますが、祈りの歩行がなされた場所で自殺をしなくなっただけであって、自殺願望者は該当場所とは別の場所でそのうち自殺するでしょう。
要は土地とかでなくて人々に伝道をするべきであって、自殺願望者に福音を伝えるべきで土地に伝道するべきではありませんよね。
私は霊感体質ではなく幻とかみませんので、彼らのすべてを否定するのもおこがましいと思いますが、カリスマ派が極端に祈りの歩行をして、死者の霊のために祈っている様子をみていると、「祈りの歩行」という教え自体が真理への弊害となって滅びの道へいざなう悪魔の欺瞞となっているのを感じます。
祈りの歩行信奉者は霊媒っぽくなる
霊とのアクセスを起こすために瞑想したり、事故物件に行き「死者の霊」から情報を得て正確に過去の出来事を言い当てる行為は、霊媒師の仕事です。霊媒師は、youtubeでも確認できますが、未解決事件の現場に行き、正確に過去の事件の出来事を言い当ててしかも犯人の名前や特徴、被害者の恐怖の感情まで言い当てるのです。
霊媒師は、「被害者の霊から情報を与えられた」とか「被害者が恐怖で犯人の顔を覚えていないといっているから、全てはわからない」とか言いつつ、その他諸々の詳細を語り事件解決の糸口を見つけ出すなど、それは生々しく非常に「死者の霊」が生きていて、感情があるように思わせてきます。
それは、聖書ではご法度な慣習です。サウル王の前に現れたサムエルの霊は割と正確なことを語り、「私をわざわざ呼び起こすな、主はお前を見捨てておられるぞ」とか感情があり生々しい神を敬っているかのようなリアルな語りかけをします。しかしこれはまさに悪霊の仕業であり、聖書はそれを非としているのでした。
死者の霊が地上へ蔓延しそれを供養するために天へ引き上げられるために祈るとかは、「祈りの歩行」自体の乱用と思います。個人的には祈りの歩行は別に興味がありませんが、している人たちを否定するつもりはありません。
でも、どんどんアレンジの度が過ぎると、結局その土地で過去に起きた出来事を呼び覚まそうとしたり死者の霊を見て語り合うなど、もはや霊媒へ扉が開かれてしまっているのではないかと思います。
「生きている者たちのために死者に問い合わせることがあってよいだろうか」。―イザヤ 8:19。
土地のために純粋に祈り、祝福されるように祈ることは恵まれますが、まず第一に生きている人間に伝道をして、祈ってください。土地のために死者の霊のために祈ること、それらを霊の世界で覗くために頭を空にして瞑想する、恍惚状態になることは聖書的ではないので今すぐ手放してください.


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