キリストへの信仰を持たない人々や、生前に聖書の教えに接する機会がなかった人々が、例外なく永遠の刑罰(地獄)に処されるという言説について、聖書テキストに基づいた学術的検証を行う。聖書全体のコンテキストを精査すると、そのような厳格主義的な救済観は必ずしも支持されておらず、むしろ良心的に生きた非キリスト者にも救済の道が開かれていることが示唆されている。
セカンドチャンス論における聖書的根拠
エゼキエル16:53 「『そしてわたしは,彼らの捕らわれ人,ソドムとそれに依存する町々の捕らわれ人,およびサマリアとそれに依存する町々の捕らわれ人を集める。わたしはまた,あなたの捕らわれ人を彼らの中に集める。 54 それはあなたが自分の辱めを負うためである。あなたは自分の行なったすべてのことのために必ず辱めを覚える。あなたは彼らを慰めたからである。 55 前述のあなたの姉妹,ソドムとそれに依存する町々は以前の状態に戻り,サマリアとそれに依存する町々も以前の状態に戻り,あなたとあなたに依存する町々も以前の状態に戻る。
マタイ11:20 それから[イエス]はご自分の強力な業の多くがなされた都市を非難し始められた。それらが悔い改めなかったからである。 21 「コラジンよ,あなたは災いです! ベツサイダよ,あなたは災いです! あなた方の中でなされた強力な業がティルスやシドンでなされていたならば,彼らは粗布と灰の中でずっと以前に悔い上げていたからです。 22 したがって,あなた方に言いますが,裁きの日には,あなた方よりティルスやシドンのほうが耐えやすいでしょう。 23 そしてカペルナウムよ,あなたが天に高められるようなことがあるでしょうか。あなたはハデスにまで下るのです。あなたの中でなされた強力な業がソドムでなされていたならば,[ソドム]は今日この日に至るまで残っていたからです。 24 それであなた方に言いますが,裁きの日には,あなたよりソドムの地のほうが耐えやすいでしょう」。
12:41 ニネベの人々は裁きの際にこの世代と共に立ち上がり,この[世代]を罪に定めるでしょう。彼らはヨナの宣べ伝えることを聞いて悔い改めたからですが,見よ,ヨナ以上のものがここにいるのです。 42 南の女王は裁きの際にこの世代と共によみがえらされ,この[世代]を罪に定めるでしょう。彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからですが,見よ,ソロモン以上のものがここにいるのです。
コリント第一5:5 あなた方がそのような人を肉の滅びのためにサタンに引き渡し,こうして主の日に霊が救われるようにするためです。
11:30 そのために,あなた方の中には弱くて病みがちな人が多くおり,相当数の者は[死の]眠りについています。 31 しかし,自分自身がどのような者であるかをわきまえるなら,わたしたちは裁きを受けることはないでしょう。 32 しかし,裁きを受けるとき,わたしたちはエホバから懲らしめを受けているのであり,それは,わたしたちが世と共に罪に定められることのないためです。
これらの聖句は、現世において罪の裁きを受け、死(聖書における「眠り」の状態)によってその報いを得た者が、将来的な復活の恩恵に浴する可能性を示している。ヤコブの手紙2章13節における「憐れみは裁きに打ち勝つ」という原則が示す通り、キリストを知らぬまま不条理な環境下で没した人々は、神の終末論的な審判において、慈悲の対象として復活を遂げると解釈される。
「死後救済(セカンドチャンス)」という概念に対しては、教理的な反発を覚える言説も存在するが、聖書自体が死を「罪からの解放」として規定している点は看過できない。「死んだ者は罪から免れる」「罪の支払う報酬は死である」とするローマの信徒への手紙6章7節および23節の論理に基づけば、情状酌量の余地がある罪人や、福音に接さずに死を迎えた人々が、一部の伝統的教会が主張するような永劫の地獄の苦しみに即座に落とされるわけではないことが導き出される(これは霊魂不滅説に対する批判的論拠ともなる)。最終的にヨハネの黙示録は、ソドム、ティルス、シドン、あるいはニネベといった歴史的な罪人たちが復活を遂げ、神の統治を受け入れるプロセスを内包している。
黙示録21:7 だれでも征服する者はこれらのものを受け継ぎ,わたしはその神となり,彼はわたしの子となるであろう。24 実に見よ,諸国民はその光によって歩み,地の王たちは(神から与えられた)自分の栄光をそこに携え入れるのである。
とりわけ、21章24節で用いられている「諸国民」のギリシャ語原語は「エスノス(ἔθνος)」であるが、これは聖書において「異邦人」、すなわち非キリスト者を指す概念として多用される傾向にある。新約聖書の構造において、クリスチャンが象徴的な「イスラエル」として位置づけられる一方、未信者は「エスノス」として区別されるケースが多い。
すなわち、同章7節において復活を遂げた「諸国民(非キリスト者である異邦人や罪人)」が、最終的に悪を克服し、24節に示されるようにキリストの贖罪と神の栄光を受け入れることが予言されていると言える。「未信仰者は一律に自動的に地獄へ送られる」という極端な二元論は、聖書全体の多元的な救済観と整合しない。
ルカによる福音書10章25節以降の記述を精査すると、当時の社会で忌避されていた異教的背景を持つサマリア人が、その善行によってキリストに是認される一方、律法を有するユダヤ人が否認されるという逆転現象が描かれている。また、マタイによる福音書25章34–40節における「キリストの兄弟」への無意識の善行、ローマの信徒への手紙2章10–15節における「良心」に従って生きた異邦人の義認、さらにはヨシュア記2章における遊女ラハブの信仰的決断など、未信者や異教徒であってもその倫理的・実践的行動によって神の恩寵に預かる事例は枚挙に暇がない。
ルツ記2:20 それを聞いてナオミは嫁に言った,「その人にエホバから祝福がありますように。[神]は生きている者にも死んだ者にもご自分の愛ある親切をお捨てにならなかったのです」。
ルカ10:30 ところが、常日頃ユダヤ人に軽蔑されていたサマリヤ人がたまたま通りかかり、旅人を見つけました。その人をかわいそうに思ったサマリヤ人は、 34急いでそばに近づいて、傷口に薬をぬり、包帯を巻いて応急手当をしました。それから自分のろばに乗せ、宿屋まで運んで、一晩中、看病してあげました。 35翌日、宿屋の主人にデナリ銀貨二枚を渡し、『あの人を介抱してあげてください。足りない分は、私が帰りに寄って払いますから』と頼みました。 36この三人のうちだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」 37律法の専門家は答えました。「もちろん、親切にしてやった人です。」この答えを聞くと、イエスは言われました。「そのとおりです。あなたも同じようにしなさい。」
ローマ2:10 すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。 11神は人を分け隔てなさいません。 12律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。 13律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。 14たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。 15こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。 16そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。
このように、キリスト教の枠外にある未信者であっても、実効的な親切心や倫理的良心を示すことによって救済の範疇に含まれることが論証される。
結論として、神を認識する機会のなかった誠実な人物は「義人」として復活の希望を有し、また情状酌量の余地がある罪人が現世で滅びを迎えた場合にも、死後における復活の可能性が聖書から読み解ける。これを一般に「死後救済論(セカンドチャンス論)」と呼称するのであれば、それは十分に聖書的根拠に基づいた神学教理であると言える。


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